和泉式部、保昌が妻にて「十訓抄」予習編第1回

読解(予習編)

はじめに

自己紹介はこちら

今回は『十訓抄』という説話集に載っている話で、教科書には「大江山」と題名がつけられていることもあります。このお話は1年生の初期に習う場合と、2年生の初期に習う場合とがあります。今回は内容に重きをおいて説明していきたいと思います。
授業の予習としてやっておきたいことは以下の3点です。

1本文を読む
2登場人物の確認
3お話を簡単に理解

本文を読む

 文章をとにかく声に出して読みます。そうすると、読みにくい箇所が分かると思います。わかりにくいところに線を引いておくとよいでしょう。

登場人物の確認

 和泉式部  (藤原)保昌  小式部内侍  定頼中納言

読んでいくと分かりますが、(藤原)保昌は最初に名前が出るだけであとは全く出てきません。和泉式部も都から遠く離れた丹後地方(天橋立近くといえば分かりやすいでしょうか)にいるので、直接的には出てきません。ただ、この和泉式部が文章を読むうえでのキーになるので、無視するわけにはいかないですね。もちろん話の中心は小式部内侍と定頼中納言のやり取りになります。

お話を簡単に理解

第一段落
・和泉式部は藤原保昌の妻で、今は丹後に下っている
・その時、都で「歌合うたあは」が開かれるが、和泉式部の娘の小式部内侍が歌よみに選ばれる
・定頼中納言が、小式部内侍の局の前を通るときに「母の手紙はまだか」と言う
・小式部内侍は、定頼中納言の袖を引っ張りながら歌を詠む
ーーーー(ここから第二回)ーーーー
・定頼中納言は歌の内容に驚き、返歌もせずに逃げていく
第二段落
・このエピソードにより、小式部は歌よみの世界で評判になる
第三段落
・作者の感想 定頼中納言は、小式部の実力を知らなかったのであろうか

次に、理解しにくい箇所を解説していきます。

  • ①丹後へ遣はしける人は参りたりや
  • ②いかに心もとなくおぼすらむ
  • ③大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立

①に入る前に、大まかな場面の整理をしておきます。

いま、和泉式部は今の夫について丹後(現在の京都府北部)にいます和泉式部は、当時の有名な和歌の達人です。数々の情熱的な恋歌が現在にも伝わっています。その和泉式部の娘である小式部内侍が今回の主人公です。
この和泉式部が丹後に下っていたとき、京都で「歌合うたあはせ」という催しが行われようとしていました。「歌合」とは、歌人が左右二組に分かれ、決められた題で詠んだ歌を出し合って歌の優劣を競う催しです。
その「歌合せ」の歌い手に小式部内侍が選ばれました。そこで、定頼中納言(藤原定頼=当時の和歌の達人である藤原公任きんとうの息子)が小式部内侍に余計なことを言います

①丹後へ遣はしける人は参りたりや

「丹後へ遣はしける人」とは、「丹後国に送った使いの者」ということですが、その「使いの者」が京都へ戻ってきたか、という意味です。解釈は簡単でしょう。
では、小式部内侍はどうして丹後国に使いをやる必要があると定頼中納言は考えたのでしょう?

その答えは以下の板書を見てください。

板書にある通り、定頼中納言は和泉式部の力を借りよう(代作してもらおう)としていると考えているのです。

②いかに心もとなくおぼすらむ

「いかに」は疑問詞全般を表します。ここでは、「どんなに/どれほど」という意味です。

次の、「心もとなく」が重要単語です。いくつも意味がありますが、一つ一つ丁寧に覚えましょう。

「心もとなし」(形・ク活)←心の抑えがきかず、あれこれ思い巡らされて落ち着かない
 1じれったい、待ち遠しい 
 2不安だ、気がかりだ  
 3ぼんやりしている
、はっきりしない

それぞれ2つずつ意味を書きましたが、後ろの意味「待ち遠しい、気がかりだ、はっきりしない」は「おぼつかなし」という語で出てきます。つまり、2つの語はほぼ同じであるということですね。ただ「心もとなし」は第一義(もとになる意味)が「じれったい」で、「おぼつかなし」「はっきりしない」が第一義であるという違いがあります。
ここでは第一義である「じれったい、待ち遠しい」です。では、何が待ち遠しいのでしょうか?
その答えも、下の板書を見てください。板書は訳のあとに載せています。

「おぼす」は「思ふ」の尊敬語で、「お思いになる」という意味になります。また、「らむ」は現在推量の助動詞で、「〜(て)いるだろう」ですが、尊敬語と合わせて「〜ているでしょう」。と訳すとよいでしょう。

→(訳)どんなにじれったくお思いになっているでしょう。(お思いでいらっしゃるでしょう)

定頼中納言は、小式部内侍に「(代作してもらう)母の手紙が来なくて、待ち遠しいですよねぇ」と嫌味を言っています。

定頼中納言にバカにされた小式部内侍は、怒るでもなく反論するでもなく、ただ定頼中納言の袖を少し引っ張って、和歌を詠む

③大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立

まずは、この和歌を表面的に理解してみましょう。それほど古文の知識がなくても大体の意味は分かりそうです。「大江山へ行くこの道が遠いので、まだ手紙は見ていない。天橋立の。」くらいでしょうか。これだけでも、なんとなく「母は遠くにいるので、(母がいる)天橋立からの手紙は見ていない」という内容はつかめそうですね。予習の段階ではそれで十分だと思います。あとは、授業を受けてこの和歌に含まれる修辞技法を理解し、さらに深い意味を把握すれば良いと思います。

これ以降は、一応内容を解説しておこうと思います。まずは板書を見てください。

最初に気になるのは「『大江山いくのの道』が遠い」とはどういうことかがやや分かりにくいということです。「大江山」は京都から丹後の国へと通じる山のことで、都と丹後の国の中間に存在します。また、「いくの」は「生野」と「行く」の掛詞で、「生野」とは現在の京都府福知山市にある地名です。つまり、「大江山を越えて生野を通って丹後国まで行くその道のりが遠いので」と解釈できるわけです。

また、「まだふみも見ず」は「手紙を見て(読んで)いない」だけでなく、「(丹後国の地を)踏んでいない」という意味にも解釈できます。つまり、「ふみ」は「文」と「踏み」の掛詞ということになります。
「見ず」が終止形になっているので、ここで意味が切れています。つまり、これは四句切れの和歌です。

加えて、最後が「丹後国」ではなく「天橋立」になっているのは、「天橋立」が有名な景勝地で和歌によく詠まれる場所(これを「歌枕」という)であるだけではなく、前に「踏み」を使っているので、その関係のある「橋」という言葉をあえて用いているのです。つまり、「踏み」は「橋」の縁語です。

以上を踏まえて、板書の訳を確認してみてください。

このような和歌を眼の前で詠まれた定頼中納言はどのような対応をとったのか、それは第2回にお話します。

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