このページでは、学生時代に国語が苦手だった筆者が、この順番で学べば文章の内容が分かるようになり、一気に得意科目にできたという経験をもとに、25年以上の指導において実際に受講生に好評だった「これなら古文が理解できる!」という学ぶ手順を具体的に紹介していきます。読んでいくだけで、文章の内容が分かるようになります。また、テスト前に学習すると、これだけ覚えておいたらある程度の点数は取れるという「テスト対策」にも多くの分量を割いて説明します。
はじめに
今回は「土佐日記」冒頭文の第2回です。背景知識をある程度把握して、前回の内容を頭に入れた後で次の内容に入っていきましょう。
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前回の復習
前回の内容を板書で確認してください。第1回の詳しい説明は以下のボタンをタップしてご覧ください。




「男もすなる日記」(門出)読解のコツ 第2回
古文を読解する4つのコツをお話しましょう。以下の順に確認していくと以前よりも飛躍的に古文が読めるようになるはずです。
何度も本文を読んでみて(できれば声に出して)、自分なりに文章の内容を想像してみます。特に初めて読むときは、分からない言葉があっても意味調べなどせずに読みます。分からない言葉がある中でも文章の中に「誰がいるか」「どのようなことを言っているか」「どのような行動をしているか」を考えていきます。

本文にどのような人物が出てきているか、確認します。紙で文章を読むときは、鉛筆などで▢をつけるとよりよいでしょう。
簡単でもよいので、誰かに「こんなお話」だと説明できる状態にします。ここでは、合っているかどうかは関係ありません。今の段階で、こんな話じゃないかなと考えられることが大切なのです。考えられたら、実際にこの項目をみてください。自分との違いを確認してみましょう。
古文を読んでいると、どうしても自力では分からない所がでてきます。ちなみに、教科書などでは注釈がありますが、注釈があるところは注釈で理解して構いません。それ以外のところで、多くの人が詰まるところがありますが、丁寧に解説しているので見てみてください。

step3とstep4は並行して行います。きっと、随分と読めるようになっているはずです。
本文を読む
前回の範囲の内容をしっかり思い出しながら、本文をじっくり読んでみましょう。


男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。
それの年の十二月の二十日あまり一日の日の戌の時に、門出す。そのよし、いささかに物に書きつく。
ある人、県の四年五年はてて、例の事どもみなし終へて、解由など取りて、住む館より出でて、船に乗るべき所へ渡る。かれこれ、知る知らぬ、送りす。年ごろよくくらべつる人々なむ、別れ難く思ひて、日しきりにとかくしつつののしるうちに、夜更けぬ。
ーーー(ここから第2回)ーーー
二十二日に、和泉の国までと、平らかに願立つ。藤原のときざね、船路なれど、馬のはなむけす。上中下、酔ひ飽きて、いとあやしく、塩海のほとりにてあざれあへり。
二十三日。八木のやすのりといふ人あり。この人、国に必ずしも言ひ使ふ者にもあらざなり。これぞ、たたはしきやうにて、むまのはなむけしたる。守柄にやあらむ、国人の心の常として、今は、とて見えざなるを、心ある者は、恥ぢずになむ来ける。これは、ものによりてほむるにしもあらず。
二十四日。講師、むまのはなむけしに出でませり。ありとある上・下、童まで酔ひしれて、一文字をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。
登場人物の確認
日記は、当然自分のことを書いているわけですから、「作者(自分)」が出てくることが大半です。「作者(自分)」を中心にどのような人が関わってくるか、「作者(自分)」がどのような経験をしたかを読み取っていきます。
- 作者(自分)(=ある人)
- かれこれ、知る知らぬ
- 藤原のときざね
- 八木のやすのり
- 講師
「作者」は「女」として書かれます。ですので、「ある人(が)」といかにも自分ではないという書き方になっています。その「作者」が土佐国を出るときに、多くの人が挨拶や見送りをしに来てくれます。「作者」の他はそのような人たちです。
お話を簡単に理解
- 男が書く日記を女の私も書いてみよう
- 12月21日、午後8時ころ出発 そのことを日記に書く
- ある人(=作者)が国司の任期を終えて土佐国を出ようとする。多くの人が見送りをしてくれる
- ーーー(ここから第二回)ーーー
- 22日、和泉国までの船旅の安全祈願をする 藤原のときざねが餞別を贈る
- 23日、八木のやすのりが餞別を贈る
- 24日、講師(=国分寺の僧)が餞別を贈る
今回は22日〜24日の内容把握です。それぞれ「だれかが餞別を贈る」とだけ書いてありますが、その時にどのようなことがあったか、作者はどのようなことを感じたか、それらを理解するのが読解のポイントになっています。
理解しにくい箇所の解説を見る
本文を読んで自分で内容を考えていったときに、おそらく以下の箇所が理解しにくいと感じたでしょう。その部分を詳しく説明します。解説を読んで、理解ができたら改めて本文を解釈してみてください。
- ④船路なれど、馬のはなむけす
- ⑤上中下、酔ひ飽きて
- ⑥潮海のほとりにてあざれあへり
- ⑦国に必ずしも言ひ使ふ者にもあらざなり
- ⑧今は、とて見えざなるを
- ⑨一文字をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ
ここには、「作者の冗談」が多く書かれています。「冗談」を言語化して説明するほど野暮なものはないということは重々承知していますが、我慢して読んでいただけたらと思います。
では、④までの文章を解釈してみましょう。
二十二日に、和泉の国までと、平らかに願立つ。
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二十二日に、和泉の国まで(旅が無事であるように)と、神仏に祈願する。
④船路なれど馬のはなむけす
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船路であるが、馬のはなむけをする

「馬のはなむけ」とは「旅立つ人を送ること」を指します。現代では「餞別を送る」などと言います。つまり、「お別れの際にちょっとした贈り物を送る」ということですね。はるか昔、旅人の出発時には、旅に出る人の安全を祈って、その人が乗る馬の鼻を行き先の方に向けるということが行われていたそうです。
作者は土佐国を出る際、現地の「藤原のときざね」という人から「馬のはなむけ」をしてもらったのですが、ここで作者は「土佐から都へは陸がつながっていないから、馬に乗っては行けないなあ」、なのに「『馬のはなむけ』をしてもらっちゃったよ」と冗談を言っているのです……。面白いかどうかは皆さんが判断してください。(筆者の説明が上手だったらもっと面白く言えたかもしれませんが…)
⑤上中下酔ひ飽きて
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身分の高いものも低いものも皆、十分に酔っ払って

「上中下」は「かみなかしも」と読みます。「じょうちゅうげ」ではありません(笑)。何が上だったり下だったりするかというと、これは身分のことを言っています。そこから、「身分が高い者も(真ん中の者も)低い者も皆」という意味になります。「上下」(かみしも)と使われることもあります。教科書によっては「上・中・下」と「・」がある場合もありますが、わかりやすくしてくれているだけで、意味は変わりません。
次に「飽く」ですが、これはもともと「満たされる、満足する」という意味です。今では「飽きる」というと、「いやになる」という意味で使われることが多いですが、それは「十分満足したから」という意味が含まれているわけです。人間とは面倒な生き物で、満足するとその後興味が無くなったり、いやになったりするのです。それを表した語が「飽く」です。一方それを打ち消した「飽かず」という語もよく出てきます。「飽きず」ではありません。「飽く」はカ行四段活用です。単語集などにはむしろこちらの「飽かず」が出てきている印象ですね。
「飽く」(動・カ四)
=1十分に満足する 2いやになる
「飽かず」(連語)
=1満足しない 2いやにならない
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⑥潮海(塩海)のほとりにてあざれあへり
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(塩水の)海のほとりでふざけあった

「あざる」は「戯る(=ふざける)」、「り」が完了・存続の助動詞だと分かればすぐに訳せます。
ここは、なぜ「海」ではなく、わざわざ「塩海(潮海)」と書いているのかを考えてみてほしいですね。といっても普通は分かりません。実は、「あざる」には「ふざける(戯る)」の他に「(魚などが)腐る(鯘る)」という意味が掛けられています。
ここで、「魚の干物」を思い出してみてください。塩漬けして干すことによって日持ちさせる(腐らせない)という技術を使っていますよね。今は冷蔵庫(冷凍庫)があるので生のままで遠くに魚を運ぶことができますが、当時は干物にするしかなかったのでしょうね。
話を戻しますが、この文では頭に「塩海(潮海)」とあります。これは「塩分の多い海で塩漬けした」ということを想像させたいわけです。つまり、この文には「塩分の多い海で塩漬けしたのに腐っちゃったよ」という意味も込めているというわけです。貫之の冗談の2つめです。分かりましたか?
では、⑦までの文章を改めて解釈してみましょう。
藤原のときざね、船路なれど、馬のはなむけす。上中下、酔ひ飽きて、いとあやしく、塩海のほとりにてあざれあへり。
二十三日。八木のやすのりといふ人あり。
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藤原のときざねが、船路の旅であるのに、「馬のはなむけ」をする。身分の高いものも低いものも皆、十分に酔っ払って、とても不思議なことに、(塩分がきいて腐るはずがないのに、塩水の)海のほとりでふざけあった。
二十三日。八木のやすのりという人がいた。
⑦国に必ずしも言ひ使ふ者にもあらざなり
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国司の庁で必ずしも召し使っている者(作者に近い関係者)でもないそうだ

「あらざなり」は「あらざんなり」と読みます。「ざん」が「ざ」になっているのは、「撥音便の無表記」が起こっているからです。もともとは「ざる」だったものが、撥音便化して「ざん」になり、「ん」が表記されない(できない)ので「ざ」となっているわけです。よってもともとは「あらざるなり」です。そして、「ざる」は打消の助動詞「ず」の連体形、「なり」は伝聞推定の助動詞「なり」の終止形です。なお、「撥音便の無表記」の下の「なり」は伝聞推定になることも、合わせてお伝えしておきます。
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では、⑧までの文章を改めて解釈してみましょう。
この人、国に必ずしも言ひ使ふ者にもあらざなり。これぞ、たたはしきやうにて、むまのはなむけしたる。守柄にやあらむ、国人の心の常として、
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この人(藤原のときざね)は国司の庁で必ずしも召し使っている者(作者に近い関係者)でもないそうだ。(それなのに)この人が、立派な態度で、「馬のはなむけ」をしてくれた。前の国司の人柄のせいであろうか、地方の国の人情の一般として、
※「たたはしき」は「讃えるべき」という意味ですが、特に覚える必要はないでしょう。
⑧今は、とて見えざなるを
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もう会う必要がない、といって姿を見せないらしいのに

「今は」は、「今はもう限りだ、今となっては」などと訳すことが多い言葉ですが、ここでは「今はもうあなたに会うのも限りだ」つまり「もう会う必要がない」と言っているのです。国司というのは、4年という任期を終えると都に帰るものなので、今後のことを考えても義理を果たす必要もないのです。
「見ゆ」は「見る」に奈良時代の「自発・受身」を表す「ゆ」がついたもので、以下の意味があります。
「見ゆ」(動・ヤ下二)
1見える
2見られる
3(姿を)見せる
ここでは、3の「姿を見せる」です。打消の助動詞「ず」につながって、「国司は都に帰ってしまうのでわざわざ挨拶をしに姿を見せはしない」ということを伝えているのです。
「ざなる」は「ざんなる」と読みます。⑦と同じように「撥音便の無表記」が起こっています。「ざん」が打消の助動詞「ず」の連体形、「なる」は「撥音便の無表記」の下にあるので、伝聞推定の助動詞「なり」の連体形です。
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では、⑨までの文章を改めて解釈してみましょう。
今は、とて見えざなるを、心ある者ものは、恥ぢずになむ来ける。これは、ものによりてほむるにしもあらず。
二十四日。講師、むまのはなむけしに出でませり。ありとある上・下、童まで酔ひしれて、
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もう会う必要がない、といって姿を見せないらしいのに、誠意のある者は、世間体をかまわずに来てくれたのだった。これは、贈り物(をくれたこと)によって褒めているわけでもない。
二十四日。国分寺の住職が、「馬のはなむけ」をしにおいでになった。その場に居合わせた身分の高い者・低い者、子どもまでが酔っ払って、
※「出でませり」の「ませ」は尊敬語の補助動詞です。語としては古く、あまり出てきません。
⑨一文字をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ
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「一」という文字さえ知らない者が、その人自身の足は「十」の文字を踏んで遊ぶ。

「しが足」は通常教科書に注釈があるので、「その人自身の足」と解釈できそうです。
そうすると、知らない言葉は「だに」だけですね。「だに」は「類推」を表す副助詞で、たいていは「〜(で)さえ」と訳します。「類推」とは、ここでは「程度の小さなものを挙げて程度の大きなものを想像させる」という意味で理解してもらえたら結構です。例を挙げると、「財布のなかには10円でさえない」というのは、当然「100円も1000円もない」ということを言っているでしょう。その「100円や1000円」というのが「程度の大きいもの」です。「財布のなかには10円がない」であれば、「100円や1000円がない」とはならないですよね。そのように、「(小)でさえない、まして(大)なんてあるはずがない」という意味を表すのが「だに」です。
「一文字」とは「『一』という文字」のこと、「十文字」は「『十』という文字」を言っています。当時は読み書きができるのは、ほぼ貴族だけで、それ以外の者は読み書きができなかったようです。酔っ払いは、砂浜でただ足を前後左右に動かしているだけですが、その様子を作者が見て、「文字を知らない者が、なんと酔っ払うと文字を書いて遊ぶことができるんだ」と冗談を言っているのです。貫之の冗談も3回めです。今で言えば、しつこい親父ギャグというところでしょうか…。

以上で『土佐日記』の冒頭である、「門出」の説明を終わります。次はテスト対策です。
「男もすなる日記」(門出)テスト対策 第2回
「門出」第1回のテスト対策は以下のボタンをタップしてご覧ください。
では、今回の『土佐日記』の冒頭において、テストに出そうな内容にできるだけ絞ってお話します。テスト対策は次のような流れで行うとよいでしょう。このサイトは下記の流れで解説をしています。
テスト直前でもすべきことの基本は、「本文を読むこと」です。これまで学習した内容をしっかり思い出しながら読みましょう。
古文の問一は「よみ」の問題であることが多いですね。出題されるものは決まっているので、ここで落とさないように、しっかり確認しておくことです。
「どのような話」か、簡単に説明できる状態にしましょう。
ここでのメインになります。古文はどうしても「知識」を問う必要があるので、問われる箇所は決まってきます。それならば、「よく問われる」出題ポイントに絞って学習すれば、大きな失点は防げそうですね。このサイトでは「よく問われる」箇所のみを説明していますので、じっくり読んでみてください。
古典文法の問題は必ず出題されます。それは、直接「動詞の活用」や「助動詞の意味」を問うような問題だけでなく、現代語訳や解釈の問題などでも出題されます。必ず問題を解いて、できるようになっておきましょう。このサイトは文法事項の説明も充実しているので、詳しく知りたいときは、ぜひそれぞれの項目に進んで学習してみてください。
本文を読む
テスト直前でもすべきことの基本は、「本文を読むこと」です。これまで学習した内容をしっかり思い出しながら読みましょう。「テスト対策」はあえてふりがなをつけていません。不安な場合は、「読解のコツ」の「本文を読む」で確認してみてください。
二十二日に、和泉の国までと、平らかに願立つ。藤原のときざね、船路なれど、馬のはなむけす。上中下、酔ひ飽きて、いとあやしく、潮海のほとりにてあざれあへり。
二十三日。八木のやすのりといふ人あり。この人、国に必ずしも言ひ使ふ者にもあらざなり。これぞ、たたはしきやうにて、むまのはなむけしたる。守柄にやあらむ、国人の心の常として、「今は。」とて見えざなるを、心ある者は、恥ぢずになむ来ける。これは、ものによりてほむるにしもあらず。
二十四日。講師、むまのはなむけしに出でませり。ありとある上・下、童まで酔ひしれて、一文字をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。
読みで問われやすい語
青線部の読みができるようになっておきましょう。
- 和泉の国までと、平らかに願立つ。
- 上中下、酔ひ飽きて、
- 守柄にやあらむ、国人の心の常として、
- ありとある上・下、童まで酔ひしれて、
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「和泉」は「いずみ」、「願」は「がん」、「上中下」は「かみなかしも」、「守」は「かみ」(「守柄」は「かみがら」)、「上・下」は「かみしも」、「童」は「わらわ」です。すべて現代仮名遣いで表記しています。
あらすじの確認
- 男が書く日記を女の私も書いてみよう
- 12月21日、午後8時ころ出発 そのことを日記に書く
- ある人(=作者)が国司の任期を終えて土佐国を出ようとする 多くの人が見送りをしてくれる
- ーーー(ここから第2回)ーーー
- 22日、和泉国までの船旅の安全祈願をする 藤原のときざねが餞別を贈る
- 23日、八木のやすのりが餞別を贈る
- 24日、講師(=国分寺の僧)が餞別を贈る
出題ポイント
以下の項目が何も見ずに訳すことができるか確認してください。
- ④船路なれど、馬のはなむけす
- ⑤上中下、酔ひ飽きて
- ⑥潮海のほとりにてあざれあへり
- ⑦あらざなり
- ⑧今は、とて見えざなるを
- ⑨一文字をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ
④船路なれど馬のはなむけす
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船路であるが、馬のはなむけをする
- 「馬のはなむけ」の意味
- 作者の冗談であることの確認
「馬のはなむけ」とは「旅立つ人を送ること」を指します。現代では「餞別を送る」などと言います。つまり、「お別れの際にちょっとした贈り物を送る」ということですね。はるか昔、旅人の出発時には、旅に出る人の安全を祈って、その人が乗る馬の鼻を行き先の方に向けるということが行われていたそうです。
作者は土佐国を出る際、現地の「藤原のときざね」という人から「馬のはなむけ」をしてもらったのですが、ここで作者は「土佐から都へは陸がつながっていないから、馬に乗っては行けないなあ」、なのに「『馬のはなむけ』をしてもらっちゃったよ」と冗談を言っているのです……。
⑤上中下酔ひ飽きて
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身分の高いものも低いものも皆、十分に酔っ払って
- 「上中下」の読みと意味
- 「酔ひ飽きて」の意味
「上中下」は「かみなかしも」と読みます。「身分が高い者も(真ん中の者も)低い者も皆」という意味になります。
次に「飽く」ですが、これはもともと「満たされる、満足する」という意味です。今では「飽きる」というと、「いやになる」という意味で使われることが多いですが、それは「十分満足したから」という意味が含まれているわけです。よって、「酔ひ飽きて」は「十分に酔っ払って」という意味になります。
⑥潮海(塩海)のほとりにてあざれあへり
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塩水の海のほとりでふざけあった
- 「あざれあへり」の意味
- 作者の冗談であることの確認
「あざる」は「戯る(=ふざける)」、「り」が完了・存続の助動詞だと分かれば「ふざけあった」と訳せます。また、「あざる」には「ふざける(戯る)」の他に「(魚などが)腐る(鯘る)」という意味が掛けられています。
この文では頭に「塩海(潮海)」とありました。これは「塩分の多い海で塩漬けした」ということを想像させたいわけです。つまり、「塩分の多い海で塩漬けしたのに腐っちゃったよ」という意味も込めているというわけです。貫之の冗談の2つめです。
⑦あらざなり
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(国司の庁で必ずしも召し使っている者(作者に近い関係者)でも)ないそうだ
- 「あらざなり」の読みと意味
「あらざんなり」と読みます。「ざん」が「ざ」になっているのは、「撥音便の無表記」が起こっているからです。もともとは「ざる」だったものが、撥音便化して「ざん」になり、「ん」が表記されない(できない)ので「ざ」となっているわけです。よってもともとは「あらざるなり」です。そして、「ざる」は打消の助動詞「ず」の連体形、「なり」は伝聞推定の助動詞「なり」の終止形です。特に推定にするような音による根拠がないために、ここでは伝聞でとって、「ないそうだ」と訳しました。
⑧今は、とて見えざなるを
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(国人は)もう会う必要がない、といって姿を見せないとかいうのに
- 「今は」の意味
- 「見えざなる」の訳
- 「見えざなる」の主語
「今は」は、「今はもう限りだ、今となっては」などと訳すことが多い言葉ですが、ここでは「今はもうあなたに会うのも限りだ」つまり「もう会う必要がない」と言っているのです。
「見ゆ」は、以下の意味があります。「1見える、2見られる、3(姿を)見せる」とありますが、ここでは、3の「姿を見せる」です。打消の助動詞「ず」につながって、「国司は都に帰ってしまうのでわざわざ挨拶をしに姿を見せはしない」ということを伝えているのです。よって、「見えざなる」の主語は「国人」です。
「ざなる」は「ざんなる」と読みます。⑦と同じように「撥音便の無表記」が起こっています。「ざん」が打消の助動詞「ず」の連体形、「なる」は伝聞推定の助動詞「なり」の連体形です。ここでも、「なり」は伝聞ととります。
以上から、「見えざなる」は「姿を見せないとかいうのに」という訳になります。
⑨一文字をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ
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「一」という文字さえ知らない者が、その人自身の足は「十」の文字を踏んで遊ぶ。
- 「だに」の意味
- 作者の冗談であることの確認
「しが足」は通常教科書に注釈があるので、「その人自身の足」と解釈できそうです。
そうすると、知らない言葉は「だに」だけですね。「だに」は「類推」を表す副助詞で、たいていは「〜(で)さえ」と訳します。「類推」とは、ここでは「程度の小さなものを挙げて程度の大きなものを想像させる」という意味で理解してもらえたら結構です。
「一文字」とは「『一』という文字」のこと、「十文字」は「『十』という文字」を言っています。当時は読み書きができるのは、ほぼ貴族だけで、それ以外の者は読み書きができなかったようです。酔っ払いは、砂浜でただ足を前後左右に動かしているだけですが、その様子を作者が見て、「文字を知らない者が、なんと酔っ払うと文字を書いて遊ぶことができるんだ」と冗談を言っているのです。もう貫之の冗談も3回めです…。
文法の確認
今回は前回の続きです。同じように助動詞の確認です。推量系の助動詞も多いのでいきなりすべてを覚えるのは難しいですが、今回は慣れていくためにも多くを取り上げてみましょう。助動詞の学習は以下ご覧ください。
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本文中の青線部のもとの形(終止形)とそれぞれの文法的意味を答えなさい。
二十二日に、和泉の国までと、平らかに願立つ。藤原のときざね、船路⑧なれど、馬のはなむけす。上中下、酔ひ飽きて、いとあやしく、潮海のほとりにてあざれあへ⑨り。
二十三日。八木のやすのりといふ人あり。この人、国に必ずしも言ひ使ふ者にもあら⑩ざ⑪なり。これぞ、たたはしきやうにて、馬のはなむけし⑫たる。守柄にやあら⑬む、国人の心の常として、「今は。」とて見え⑭ざ⑮なるを、心ある者は、恥ぢ⑯ずになむ来⑰ける。これは、ものによりてほむるにしもあら⑱ず。
二十四日。講師、むまのはなむけしに出でませ⑲り。ありとある上・下、童まで酔ひしれて、一文字をだに知ら⑳ぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。
解答はこちら(タップで表示)
まずはもとの形をそれぞれ挙げていきます。その語が持つ文法的意味を思い出せない状態であれば、各項目に移動して、確認してみてください。
【もとの形】
⑧「なり」⑨「り」⑩「ず」⑪「なり」
⑫「たり」⑬「む」⑭「ず」⑮「なり」
⑯「ず」⑰「けり」⑱「ず」⑲「り」
⑳「ず」
【文法的意味】
⑧断定 ⑨完了 ⑩打消 ⑪伝聞
⑫完了 ⑬推量 ⑭打消 ⑮伝聞
⑯打消 ⑰過去 ⑱打消 ⑲完了
⑳打消
助動詞が分かりだすと、文章の理解が一気に早くなります。がんばりましょう!
おわりに
今回は『土佐日記』の冒頭(「門出」)について、読んでいきました。個人的には、作者の渾身の冗談をどのように伝えたら面白くなるか、精一杯考えましたがやっぱりうまく伝えられないことをもどかしく感じます。これは実際に授業で話すときもそうでした。そもそも、冗談を解説するのは困難を極めます……。愚痴はこのあたりにして、また次の回でお会いしましょう。
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