男もすなる日記「土佐日記」 予習編第2回

読解(予習編)

はじめに

自己紹介はこちら

今回は「土佐日記」冒頭文の第2回です。「土佐日記」についての説明は第1回を見てください。背景知識をある程度把握して、前回の内容を頭に入れた後で次の内容に入っていきましょう。することは「本文を読む」「人物の確認」「お話の理解」の3つです。その後、理解しにくい箇所の解説に進みましょう。

本文を読む

 読むときに、前回の範囲の内容をしっかり思い出しながら声を出して読みましょう。

登場人物の確認(再度)

日記は、当然自分のことを書いているわけですから、「作者(自分)」が出てくることが大半です。「作者(自分)」を中心にどのような人が関わってくるか、「作者(自分)」がどのような経験をしたかを読み取っていきます。

作者(自分(=ある人) かれこれ、知る知らぬ 藤原のときざね 八木のやすのり 講師

「作者」は「女」として書かれます。ですので、「ある人(が)」といかにも自分ではないという書き方になっています。その「作者」が土佐国を出るときに、多くの人が挨拶や見送りをしに来てくれます。「作者」の他はそのような人たちです。

お話を簡単に理解

※段落が多いので、段落表記はしません
・男が書く日記を女の私も書いてみよう
・12月21日、午後8時ころ出発 そのことを日記に書く
・ある人(=作者)が国司の任期を終えて土佐国を出ようとする。多くの人が見送りをしてくれる
ーーーー(ここから第二回)ーーーー
・22日、和泉国までの船旅の安全祈願をする 藤原のときざねが餞別を贈る
・23日、八木のやすのりが餞別を贈る
・24日、講師(=国分寺の僧)が餞別を贈る

今回は22日〜24日の内容把握です。それぞれ「だれかが餞別を贈る」とだけ書いてありますが、その時にどのようなことがあったか、作者はどのようなことを感じたか、それらを理解するのが読解のポイントになっています。

理解しにくい箇所の解説を見る

以下の6箇所が分かれば、後半部の文章はほぼ理解できるはずです。

  • ④船路なれど馬のはなむけす
  • ⑤上・中・下酔ひ飽きて
  • ⑥塩海のほとりにてあざれあへり
  • ⑦あらざなり
  • ⑧今は、とて見えざなるを
  • ⑨一文字をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ

ここには、「作者の冗談」が多く書かれています。「冗談」を言語化して説明するほど野暮なものはないということは重々承知していますが、我慢して読んでいただけたらと思います。

④船路なれど馬のはなむけす

「馬のはなむけ」とは「旅立つ人を送ること」を指します。現代では「餞別を送る」などと言います。つまり、「お別れの際にちょっとした贈り物を送る」ということですね。はるか昔、旅人の出発時には、旅に出る人の安全を祈って、その人が乗る馬の鼻を行き先の方に向けるということが行われていたそうです。

作者は土佐国を出る際、現地の「藤原のときざね」という人から「馬のはなむけ」をしてもらったのですが、ここで作者は「土佐から都へは陸がつながっていないから、馬に乗っては行けないなあ」、なのに「『のはなむけ』をしてもらっちゃったよ」と冗談を言っているのです……。面白いかどうかは皆さんが判断してください。(私の説明が上手だったらもっと面白く言えたかもしれませんが…)

⑤上中下酔ひ飽きて

「上中下」は「かみなかしも」と読みます。「じょうちゅうげ」ではありません(笑)。何が上だったり下だったりするかというと、これは身分のことを言っています。そこから、「身分が高い者も(真ん中の者も)低い者も皆」という意味になります。「上下」(かみしも)と使われることもあります。教科書によっては「上・中・下」と「・」がある場合もありますが、わかりやすくしてくれているだけで、意味は変わりません。

次に「飽く」ですが、これはもともと「満たされる、満足する」という意味です。今では「飽きる」というと、「いやになる」という意味で使われることが多いですが、それは「十分満足したから」という意味が含まれているわけです。人間とは面倒な生き物で、満足するとその後興味が無くなったり、いやになったりするのです。それを表した語が「飽く」です。一方それを打ち消した「飽かず」という語もよく出てきます。「飽きず」ではありません。「飽く」はカ行四段活用です。単語集などにはむしろこちらの方が出てきている印象ですね。

「飽く」(動・カ四)十分に満足する 2いやになる
「飽かず」
(連語)1満足しない 2いやにならない

→(訳)身分の高いものも低いものも皆、十分に酔っ払って

⑥塩海のほとりにてあざれあへり

「あざる」は「戯る(=ふざける)」、「り」が完了・存続の助動詞だと分かればすぐに訳せます。先に訳を載せておきます。

→(訳)塩水の海のほとりでふざけあった

 ここは、なぜ「海」ではなく、わざわざ「塩海」と書いているのかを考えてみてほしいですね。といっても普通は分かりません。実は、「あざる」には「ふざける(あざる)」の他に「(魚などが)腐る(あざる)」という意味が掛けられています
 ここで、「魚の干物」を思い出してみてください。塩漬けして干すことによって日持ちさせる(腐らせない)という技術を使っていますよね。今は冷蔵庫(冷凍庫)があるので生のままで遠くに魚を運ぶことができますが、当時は干物にするしかなかったのでしょうね。
 話を戻しますが、この文では頭に「塩海」とあります。これは「塩分の多い海で塩漬けした」ということを想像させたいわけです。つまり、この文には「塩分の多い海で塩漬けしたのに腐っちゃったよ」という意味も込めているというわけです。貫之の冗談の2つめです。分かりましたか?

23日、八木のやすのりが作者のもとにやって来る

⑦あらざなり

「あらざんなり」と読みます。「ざん」が「ざ」になっているのは、「撥音便の無表記」が起こっているからです。「撥音便の無表記」については、こちらで詳しく解説しています。もともとは「ざる」だったものが、撥音便化して「ざん」になり、「ん」が表記されない(できない)ので「ざ」となっているわけです。よってもともとは「あらざるなり」です。そして、「ざる」は打消の助動詞「ず」の連体形、「なり」は伝聞推定の助動詞「なり」の終止形です。なお、「撥音便の無表記」の下の「なり」は伝聞推定になることも、合わせてお伝えしておきます。

→(訳)(国司のいた役所の関係者でも)ないそうだ

八木のやすのりも、「馬のはなむけ」をする
国司というのは、4年という任期を終えると都に帰るものなので…

⑧今は、とて見えざなるを

 「今は」は、「今はもう限りだ、今となっては」などと訳すことが多い言葉ですが、ここでは「今はもうあなたに会うのも限りだ」つまり「もう会う必要がない」と言っているのです。
 「見ゆ」は「見る」に奈良時代の「自発・受身」を表す「ゆ」がついたもので、以下の意味があります。

「見ゆ」(動・ヤ下二)
 1見える 2見られる 3(姿を)見せる

ここでは、3の「姿を見せる」です。打消の助動詞「ず」につながって、「国司は都に帰ってしまうのでわざわざ挨拶をしに姿を見せはしない」ということを伝えているのです。
 「ざなる」は「ざんなる」と読みます。⑦と同じように「撥音便の無表記」が起こっています。「ざん」が打消の助動詞「ず」の連体形、「なる」は「撥音便の無表記」の下にあるので、伝聞推定の助動詞「なり」の連体形です。

→(訳)もう会う必要がない、といって姿を見せないとかいうのに

それでも、心ある者は挨拶をしに来てくれる
もちろん、物をくれるからほめているわけではない
24日、講師(国分寺の僧)が「馬のはなむけ」にやって来る
そのとき、(宴会をして)みんなが酔っぱらう

⑨一文字をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ

「しが足」は通常教科書に注釈があるので、「その人自身の足」と解釈できそうです。
そうすると、知らない言葉は「だに」だけですね。「だに」「類推」を表す副助詞で、たいていは「〜(で)さえ」と訳します。「類推」とは、ここでは「程度の小さなものを挙げて程度の大きなものを想像させる」という意味で理解してもらえたら結構です。例を挙げると、「財布のなかには10円でさえない」というのは、当然「100円も1000円もない」ということを言っているでしょう。その「100円や1000円」というのが「程度の大きいもの」です。「財布のなかには10円がない」であれば、「100円や1000円がない」とはならないですよね。そのように、「(小)でさえない、まして(大)なんてあるはずがない」という意味を表すのが「だに」です。
 「一文字」とは「『一』という文字」のこと、「十文字」は「『十』という文字」を言っています。当時は読み書きができるのは、ほぼ貴族だけで、それ以外の者は読み書きができなかったようです。酔っ払いは、砂浜でただ足を前後左右に動かしているだけですが、その様子を作者が見て、「文字を知らない者が、なんと酔っ払うと文字を書いて遊ぶことができるんだ」と冗談を言っているのです。貫之の冗談も3回めです。今で言えば、しつこい親父ギャグというところでしょうか…。
→(訳)「一」という文字さえ知らない者が、その人自身の足は「十」の文字を踏んで遊ぶ。

以上が「土佐日記」冒頭の解説です。復習編では助動詞の演習もやりましょう。

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