はじめに
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今回は『平家物語』「木曽殿の最期」の第2回です。『平家物語』については第1回の「『平家物語』について」で説明していますので、詳細はそちらをご覧ください。
前回は、木曽殿が最後の戦いをするにあたって、寵愛していた巴を逃がしたシーンまでだったね。
前回の復習
簡単にまとめると以下のとおりです。
・木曽義仲(木曽殿)の武器や鎧、乗っている馬などの説明
・木曽殿が名乗りを挙げて、相手方に進軍する
・甲斐一郎次郎、土肥二郎実平の兵を突破
・木曽殿はとうとう残り5騎になる
・木曽殿は寵愛する巴に逃げるよう説得する
・巴は最後の戦いを仕掛け、東国へ落ちていく
詳しくは第1回を見てくださいね。
「木曽殿の最期」について 第2回
では、始めましょう!することはいつも通り以下の3つです。
1本文を読む
2登場人物の確認
3内容を簡単に理解
『平家物語』は口語体のため、読みやすいですが、文章は非常に長くなります。今回は3回中の第2回です。
本文を読む
何度も本文を読んでみて、内容を想像してみるのが予習の最も大事なことです。特に初めて読むときは、意味調べはせずに読んでみましょう。今回は特に登場人物をしっかり確認し、それぞれがどのようなことを言っているか、どのような行動をしているかを考えていきましょう。
今井四郎・木曽殿、主従二騎になつてのたまひけるは、「日ごろはなにともおぼえぬ鎧が、今日は重うなつたるぞや。」今井四郎申しけるは、「御身もいまだ疲れさせ給はず。御馬も弱り候はず。なにによつてか一両の御着背長を重うはおぼしめし候ふべき。それは御方に御勢が候はねば、臆病でこそさはおぼしめし候へ。兼平一人候ふとも、余の武者千騎とおぼしめせ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き矢仕らん。あれに見え候ふ、粟津の松原と申す。あの松の中で御自害候へ。」とて、打つて行くほどに、また新手の武者五十騎ばかり出できたり。「君はあの松原へ入らせ給へ。兼平はこの敵防き候はん。」と申しければ、木曽殿のたまひけるは、「義仲都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れくるは、汝と一所で死なんと思ふためなり。ところどころで討たれんよりも、ひとところでこそ討ち死にをもせめ。」とて、馬の鼻を並べて駆けんとし給へば、今井四郎馬より飛び降り、主の馬の口に取りついて申しけるは、「弓矢とりは、年ごろ、日ごろいかなる高名候へども、最後の時不覚しつれば、ながき疵にて候ふなり。御身は疲れさせ給ひて候ふ。続く勢は候はず。敵に押しへだてられ、いふかひなき人の郎等に組み落とされさせ給ひて、討たれさせ給ひなば、『さばかり日本国に聞こえさせ給ひつる木曽殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる』なんど申さんことこそ口惜しう候へ。ただあの松原へ入らせ給へ。」と申しければ、木曽、「さらば。」とて、粟津の松原へぞ駆け給ふ。
内容を簡単に理解
・今井兼平と二人きりになった木曽殿は弱音を吐く
・今井兼平は木曽殿を叱咤激励し、粟津の松原で自害するよう進言する
・木曽殿は今井兼平と一緒に死にたい、同じところで討ち死にすればよいと言う
・今井兼平は、武士が下級兵に殺されるのは恥なので、自害するよう強く進める
・木曽殿は、今井兼平の意見を受け入れる
登場人物の確認
第2回の登場人物は以下のとおりです。
木曽殿(左馬頭兼伊予守、朝日の将軍、源義仲)→主人公
今井四郎兼平→義仲の忠臣、兼平の父が義仲を養育した
理解しにくい箇所の解説を見る
以下の4箇所を詳しく解説していきます。
- 兼平一人候ふとも、余の武者千騎とおぼしめせ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き矢仕らん。
- 義仲都にていかにもなるべかりつるが
- 弓矢とりは、年ごろ、日ごろいかなる高名候へども、最後の時不覚しつれば、ながき疵にて候ふなり。
- 御身は疲れさせ給ひて候ふ。
- さばかり日本国に聞こえさせ給ひつる木曽殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる
いよいよ木曽殿(義仲)は今井四郎兼平と主従二騎になってしまいます。そこで、木曽殿は、「日ごろは何とも感じない鎧が、今日は重くなったぞ。」と弱音を吐きます。そこで今井四郎は、「お身体もまだ疲れていらっしゃいません。お馬も弱ってはおりません。どうして一両の御着背長を重くお感じになるのでしょうか。それは味方に軍勢がおりませんので、気後れからそのようにお思いになるのです。」と木曽殿を鼓舞します。さらに、今井四郎は以下のように続けます。
④兼平一人候ふとも、余の武者千騎とおぼしめせ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き矢仕らん。
→(訳)私兼平一人(だけ)のお仕えであっても、他の武者千騎とお思いください。矢が七本八本ありますので、しばらく防ぎ矢をいたしましょう。
ここは、敵の兵に殺されてしまわないように主君である義仲を守り、「粟津の松原」という場所で義仲に自害を勧める場面です。四方を敵に囲まれてしまっている場面で、しかも家来は兼平一人、絶体絶命の状況ですが、それでも兼平は主君を守り抜くため、義仲を鼓舞します。
軍記物語や漢文の文章を読む時によく出てきますが、会話文で名前に敬称がついていない場合、その多くは自分自身のことを指します。(まれに、相手を罵って言う場合もありますが…)。ですので、この「兼平」は「私、兼平」と訳すとより理解しやすいと思います。
次に敬語についてです。ここでは4つの敬語がありますので、一つずつ丁寧に見ていきます。
「候ふ」(動・ハ四)
1(謙譲語)おそばにお控えする
お仕え申し上げる
2(丁寧語)あります/ございます
3(丁寧語)【補助動詞】ーーです/ます/ございます
軍記物語では「候ふ」は原則として「そうろう」と読みます。ここでは2つの「候ふ(候へ)」がありますが、前者は謙譲語の「(木曽殿に)お仕えする」、後者は丁寧語の「(矢が)あります」とするのがよいでしょう。
また、「おぼしめせ」は「思ふ」の尊敬語ですが、命令形になっています。尊敬語の命令形は「おーー(になって)ください」と訳すと自然な感じになります。よって、ここでは「お思い(になって)ください」と訳すとよいわけです。
最後に「仕る」です。これは「つかまつる」と読みます。「仕うまつる」となることもありますが、元々は「仕へ奉る」で、それが言いやすいように転じた言葉です。
「つかまつる」「つかうまつる」(動・ラ四)
1(謙譲語)お仕え申し上げる(←「仕ふ」)
2(謙譲語)ーー(し)申し上げる/いたす(←「す」)
ここは、2の「す」の謙譲語です。主君を逃がすために「防ぎ矢を『する』」ことを謙譲語で表現しています。ですので、「防ぎ矢をいたす/申し上げる」となります。「仕らん」の「ん」は撥音便化していますが、意志を表す助動詞「む」です。
以上をまとめると、「私兼平一人(だけ)のお仕えであっても、他の武者千騎とお思いください。矢が七本八本ありますので、しばらく防ぎ矢をいたしましょう。」となります。
あそこに見えますのは、粟津の松原と申します。あの松原の中で自害なさいませ。」と言って、馬に鞭を打って行くうちに、また新手の武者が五十騎ほど出てきた。
(今井四郎が)「殿はあの松原へお入りください。兼平はこの敵を防ぎましょう。」と申し上げたところ、木曽殿がおっしゃったことには、
⑤義仲都にていかにもなるべかりつるが
→(訳)私義仲は都でどうにでもなるはずだった(=討ち死にするはずだった)が、
「いかにもなる」は直訳すると「どうにでもなる」ですが、これは暗に「死」を意味する表現です。穢れとされる「死」という言葉は用いずに、このように言うのです。ここでは、「戦いで討ち死にする」という意味を表します。
このような表現は実は他にもあって、ここでまとめておきます。
「死ぬ」の婉曲表現
「いたづらになる」
「はかなくなる」
「むなしくなる」
「あさましくなる」
「いかにもなる」
「いかにもなるべかりつる」の「べかり」は当然を表す助動詞「べし」の連用形、「つる」は完了の助動詞「つ」の連体形です。これで、「討ち死にするはずだった」と訳せます。
ここまで逃げてきたのは、おまえ(=今井四郎)と同じ場所で死のうと思うためである。別々の場所で討たれるよりも、同じ場所で討ち死にをしよう。」と言って、(義仲)は馬の鼻を並べて駆け出そうとなさる。
そこで今井四郎は、馬から飛び降りて主君の馬の口のそばでこのように言います。
⑥弓矢とりは、年ごろ、日ごろいかなる高名候へども、最後の時不覚しつれば、ながき疵にて候ふなり。
→(訳)武士は、長年、常日頃どのような名声がございましても、最期の(死ぬ)時に不覚を取ってしまうと、末代までの不名誉でございます。
ここは、当時の武士の価値観が現れている箇所です。「ながき疵」は「これから長い間続く自分や一族にとってのきず」、言い換えると「末代までの不名誉」を表します。「年ごろ」が「長年」、「候ふ」が丁寧語で、「あります、ございます」を表すことが分かれば、解釈は難しくないでしょう。
なお、助動詞は「しつれば」の「つれ」が完了の助動詞「つ」の已然形、「疵にて」の「に」が断定の助動詞「なり」の連用形です。
⑦御身は疲れさせ給ひて候ふ。
→(訳)(あなたの)お体は疲れていらっしゃいます。
先ほど、今井は「御身もいまだ疲れさせたまはず」(お体もまだお疲れになっていない)と言っていたのに、ここでは逆のことを言っています。これは、前者が意気消沈している義仲を鼓舞するために言った言葉で、後者は敵に殺されないように自害することを勧める言葉だったためです。「もう疲れているので、これ以上戦ったら敵に殺されてしまうかもしれない。それが格下の武士だったら末代までの恥になる」そうならないように、今井は言っているわけです。
また、「疲れさせ給ひ」の「させ」は尊敬の助動詞「さす」の連用形、「給ひ」は尊敬語の補助動詞です。「候ふ」は丁寧語の補助動詞として扱います。「(て)候ふ/(て)侍り」は一般的に補助動詞とする辞書や文法書が多いようです。
続く軍勢はございません。敵に(二人の間を)無理に隔てられ、取るに足りない者の家来に組み落とされなさって、討たれてしまわれたならば、
⑧さばかり日本国に聞こえさせ給ひつる木曽殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる
→(訳)あれほど日本(中)で評判でいらっしゃった木曽殿を、だれそれの家来が討ち申し上げた
「さばかり」は「さ+ばかり」で、「それほど/あれほど」という意味です。「聞こえ」は、ここでは敬語ではありません。では、敬語動詞も含めて「聞こゆ」を説明します。
「聞こゆ」(動・ヤ下二)
1 聞こえる
2 うわさされる/評判になる
3(謙)申し上げる(←「言ふ」)
4(謙)【補】ーー申し上げる
「聞こゆ」の「ゆ」は、主に奈良時代に用いられた助動詞「ゆ」で、「自発」や「受身」を表します。ですので、「聞こえる」が第一義です。多くの人に「聞こえる」と「うわさされる」や「評判になる」という意味になります。それが「高貴な人の耳に『聞こえる』ようにする」と考えると、(高貴な人に)「申し上げる」という意味にもなるわけです。ここでは「日本国に」とあるので「うわさされる/評判になる」という意味が合うでしょう。
「聞こえさせ給ひ」の「させ」と「給ひ」は、⑦と同じく「させ」が尊敬の助動詞「さす」の連用形、「給ひ」が尊敬語の補助動詞です。また、「討ちたてまつたる」の「たてまつ」は、「たてまつり」が促音便化されて「たてまつっ(たる)」となっているのですが、「っ」が表記されていない形となっています。この「たてまつ(り)」は謙譲語の補助動詞で、全体が「討ち申し上げた」と解釈できます。
最後に「それがしが郎等」です。「それがし」は「某」と漢字を当てると意味は分かりますね。教科書では「それがしが」を「だれそれの」と注釈をつけているものが多いです。「郎等」は「家来」としておけばよいでしょう。以上をまとめると、「あれほど日本(中)で評判でいらっしゃった木曽殿を、だれそれの家来が討ち申し上げた」となります。
今井からすると、そのように敵の武士に言われてしまうことは我慢なりません。ですので、「今はただあの松原へお入りください。」と申し上げます。
そこで木曽殿は、「そういうことならば(入ろう)。」と言って、粟津の松原へ馬を走らせます。
今回のまとめ
「木曽殿の最期」の中盤部分を解釈していきました。
・今井兼平と二人きりになった木曽殿は弱音を吐く
・今井兼平は木曽殿を叱咤激励し、粟津の松原で自害するよう進言する
・木曽殿は今井兼平と一緒に死にたい、同じところで討ち死にすればよいと言う
・今井兼平は、武士が下級兵に殺されるのは恥なので、自害するよう強く進める
・木曽殿は、今井兼平の意見を受け入れる
あらすじを大体理解した上で、もう一度本文を読んでみましょう。
今井四郎・木曽殿、主従二騎になつてのたまひけるは、「日ごろはなにともおぼえぬ鎧が、今日は重うなつたるぞや。」今井四郎申しけるは、「御身もいまだ疲れさせ給はず。御馬も弱り候はず。なにによつてか一両の御着背長を重うはおぼしめし候ふべき。それは御方に御勢が候はねば、臆病でこそさはおぼしめし候へ。兼平一人候ふとも、余の武者千騎とおぼしめせ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き矢仕らん。あれに見え候ふ、粟津の松原と申す。あの松の中で御自害候へ。」とて、打つて行くほどに、また新手の武者五十騎ばかり出できたり。「君はあの松原へ入らせ給へ。兼平はこの敵防き候はん。」と申しければ、木曽殿のたまひけるは、「義仲都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れくるは、汝と一所で死なんと思ふためなり。ところどころで討たれんよりも、ひとところでこそ討ち死にをもせめ。」とて、馬の鼻を並べて駆けんとし給へば、今井四郎馬より飛び降り、主の馬の口に取りついて申しけるは、「弓矢とりは、年ごろ、日ごろいかなる高名候へども、最後の時不覚しつれば、ながき疵にて候ふなり。御身は疲れさせ給ひて候ふ。続く勢は候はず。敵に押しへだてられ、いふかひなき人の郎等に組み落とされさせ給ひて、討たれさせ給ひなば、『さばかり日本国に聞こえさせ給ひつる木曽殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる』なんど申さんことこそ口惜しう候へ。ただあの松原へ入らせ給へ。」と申しければ、木曽、「さらば。」とて、粟津の松原へぞ駆け給ふ。
おわりに
今回は「木曽殿の最期」のうち、木曽殿(義仲)と木曽殿の乳母子である今井四郎兼平との最後のやりとりについて読んでいきました。信頼し合った二人のやりとりが読んでいて涙を誘いますね。読んでみてよくわからなかったところは、ぜひ解説を読んでみてくださいね。では、また第3回でお会いしましょう。
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