はじめに
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今回は『平家物語』「木曽殿の最期」の第3回です。『平家物語』については第1回の「『平家物語』について」で説明していますので、詳細はそちらをご覧ください。
前回は、最後に残った木曽殿と今井兼平とのやりとりが中心だったね。
前回の復習
簡単にまとめると以下のとおりです。
・今井兼平と二人きりになった木曽殿は弱音を吐く
・今井兼平は木曽殿を叱咤激励し、粟津の松原で自害するよう進言する
・木曽殿は今井兼平と一緒に死にたい、同じところで討ち死にすればよいと言う
・今井兼平は、武士が下級兵に殺されるのは恥なので、自害するよう強く進める
・木曽殿は、今井兼平の意見を受け入れる
詳しくは第2回を見てくださいね。
「木曽殿の最期」について 第3回
では、始めましょう!することはいつも通り以下の3つです。
1本文を読む
2登場人物の確認
3内容を簡単に理解
『平家物語』は口語体のため、読みやすいですが、文章は非常に長くなります。今回は第3回めです。
本文を読む
何度も本文を読んでみて、内容を想像してみるのが予習の最も大事なことです。特に初めて読むときは、意味調べはせずに読んでみましょう。今回は特に登場人物をしっかり確認し、それぞれがどのようなことを言っているか、どのような行動をしているかを考えていきましょう。
今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙ふんばり立ちあがり、大音声あげて名のりけるは、「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。木曽殿の御乳母子、今井四郎兼平、生年三十三にまかりなる。さるものありとは鎌倉殿までもしろしめされたるらんぞ。兼平討つて見参にいれよ。」とて射残したる八筋の矢を、差しつめ引きつめさんざんに射る。死生は知らず、やにはに敵八騎射落とす。その後打物抜いて、あれに馳せ合ひ、これに馳せ合ひ切つてまはるに、面を合はするものぞなき。分どりあまたしたりけり。ただ、「射とれや。」とて、中に取り込め、雨の降るやうに射けれども、鎧よければ裏かかず、空き間を射ねば手も負はず。
木曽殿はただ一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日、入相ばかりのことなるに、薄氷は張つたりけり、深田ありとも知らずして、馬をざつとうち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。今井が行方のおぼつかなさに、振り仰ぎ給へる内甲を、三浦石田次郎為久、追つかかつて、よつ引いてひやうふつと射る。痛手なれば、真甲を馬の頭に当てて、うつぶし給へるところに、石田が郎等二人落ち合うて、つひに木曽殿の首をば取つてんげり。太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声をあげて、「この日ごろ日本国に聞こえさせ給ひつる木曽殿をば、三浦石田次郎為久が討ちたてまつたるぞや。」と名のりければ、今井四郎いくさしけるが、これを聞き、「今はたれを庇はんとてか、いくさをもすべき。これを見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本。」とて、太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫かつてぞ失せにける。
さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。
内容を簡単に理解
・木曽殿が去った後、今井兼平は一人で敵に向かって威勢よく名乗りを上げる
・今井兼平は敵に矢を放つ 相手も大量の矢を放つ
・木曽殿は粟津の松原へ駆けるが、馬に乗ったまま土の深い田に入ってしまう
・三浦の石田次郎為久に追いつかれ、矢を射られてしまう
・最期は石田の家来に首をはねられる
・今井兼平は木曽殿の死を耳にして、馬から飛び落ちて自害する
登場人物の確認
第3回の登場人物は以下のとおりです。
木曽殿(左馬頭兼伊予守、朝日の将軍、源義仲)→主人公
今井四郎兼平→義仲の忠臣、兼平の父が義仲を養育した
三浦の石田次郎為久→三浦為継の子孫 家来二人が木曽殿の首をとる
文章の確認
今回は特に詳しく解説する箇所もないので、本文と現代語訳をそれぞれ見ながら内容を確認していきましょう。ところどころ、解説を挟んでいます。
読みやすいので、できるだけ古文で理解しよう!
今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙ふんばり立ちあがり、大音声あげて名のりけるは、
→今井四郎はただ一騎、五十騎ほどの(敵の)中に駆け入り、鐙をふんばって立ち上がり、大声をあげて名のったことには、
「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。木曽殿の御乳母子、今井四郎兼平、生年三十三にまかりなる。さるものありとは鎌倉殿までもしろしめされたるらんぞ。兼平討つて見参にいれよ。」
→「ふだんは(きっと)噂にでも聞いているであろう、今はその目でご覧になれ。(私は)木曽殿の御乳母子、今井四郎兼平、年は三十三歳になり申す。そのような者がいるとは鎌倉殿(頼朝)までもご存じでいらっしゃるだろうよ。私兼平を討ち取って(私の首を鎌倉殿に)ご覧に入れよ。」
「乳母子」とは、「乳母の実の子」を指します。当時、高貴な貴族や武士は、母親が子を直接育てず、同じ年頃の子を持つ家来に育てさせていました。その家来を「乳母」というのですが、「乳母子」と高貴な貴族や武士の子は、本当の兄弟みたいに仲が良く、強い絆で結ばれることが多くあります。
ところで、ここで出てくる助動詞の意味はわかるかな?
「聞きつらん」の「つ」は強意の助動詞、「らん」は現在推量の助動詞でしたね。
そうだね。また、ここには敬語がたくさん使われているよ。「見給へ」の「給へ」は尊敬語の補助動詞、「しろしめす」が「知る」の尊敬語だということだけは覚えておいた方がいいよ。
とて射残したる八筋の矢を、差しつめ引きつめさんざんに射る。死生は知らず、やにはに敵八騎射落とす。その後打物抜いて、あれに馳せ合ひ、これに馳せ合ひ切つてまはるに、面を合はするものぞなき。
→と言って射残していた八本の矢を、弓に次々につがえては引き、激しく射る。死んだか生きているかはわからないが、たちまち敵を八騎射落とす。その後刀を抜いて、あちらに馬を走らせて戦い、こちらに馬を走らせて戦い斬って回るが、まともに立ち向かう者はいない。
分どりあまたしたりけり。ただ、「射とれや。」とて、中に取り込め、雨の降るやうに射けれども、鎧よければ裏かかず、空き間を射ねば手も負はず。
→敵を討ち取ることを数多くしたのだった。(敵は)ただ、「射殺せ。」と言って、中に取り囲んで、雨が降るように(矢を)射たが、鎧がいいので(矢が)鎧の裏側まで貫通せず、鎧のすき間を射ないので傷も負わない。
今井兼平は、ここでも木曽殿の最後の家来らしく、大将を守り戦い抜きます。
木曽殿はただ一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日、入相ばかりのことなるに、薄氷は張つたりけり、深田ありとも知らずして、馬をざつとうち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。
→木曽殿はただ一騎で、粟津の松原へ馬を走らせなさると、正月二十一日の、夕暮れ時のことである上に、薄氷が張っていた(ので)、深田があるともわからないで、馬をざぶんと乗り入れたので、(深く田に沈んで)馬の頭も見えなくなった。
あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。今井が行方のおぼつかなさに、振り仰ぎ給へる内甲を、三浦石田次郎為久、追つかかつて、よつ引いてひやうふつと射る。
→あおってもあおっても、(鞭で)打っても打っても動かない。今井の行方が気がかりで、振り返って仰ぎ見なさった甲の内側を、三浦の石田次郎為久が、追いついて、(弓を)よく引き絞ってひょうふっと射る。
「ひやうふつ」は擬音語で、「ひょうふっ」と訳しますが、矢が飛ぶ音と思ってもらったらいいでしょう。
痛手なれば、真甲を馬の頭に当てて、うつぶし給へるところに、石田が郎等二人落ち合うて、つひに木曽殿の首をば取つてんげり。
→(矢が命中し)深い傷なので、甲の前面部を馬の頭に当てて、うつ伏しなさったところに、石田の家来二人が来合わせて、とうとう木曽殿の首を取ってしまった。
「取つてんげり」は「取りてけり」が音便化したものです。「てけり」は説明できますね。
はい。「て」は完了の助動詞「つ」の連用形、「けり」は過去の助動詞「けり」の終止形です。もう分かるようになりました!
太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声をあげて、「この日ごろ日本国に聞こえさせ給ひつる木曽殿をば、三浦石田次郎為久が討ちたてまつたるぞや。」と名のりければ、
(首を)太刀の先に貫いて、高く差し上げ、大声をあげて、「この常日頃日本国で評判でいらっしゃった木曽殿を、三浦の石田次郎為久がお討ち申したぞ。」と名のったので、
「聞こえさせ給ひ」は「させ」が尊敬の助動詞「さす」の連用形、「給ひ」が尊敬語の補助動詞で二重尊敬になっています。また、「討ちたてまつたる」の「たてまつ(る)」は謙譲語の補助動詞ですね。訳し方は敬語の項目で確認してください。
今井四郎いくさしけるが、これを聞き、「今はたれを庇はんとてか、いくさをもすべき。これを見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本。」とて、太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫かつてぞ失せにける。
→今井四郎は戦っていたが、これを聞いて、「今となっては、誰をかばおうとして、いくさをしようか、いや、するつもりはない。これをご覧なさい、東国の殿たち、日本一の剛勇の者が自害する手本だ。」と言って、太刀の先を口に含み、馬から逆さまに飛び落ちて、(太刀に)貫かれて死んでしまった。
「庇はんとてか」の「か」反語です。反語は否定の強調で、「ーーか、いや、ーーない」と訳します。
さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。
→そういうわけで粟津のいくさは終わったのである。
最後の一文が『平家物語』らしく、無常観を感じさせるような書き方になっているね。
今回のまとめ
「木曽殿の最期」の中盤部分を解釈していきました。
・木曽殿が去った後、今井兼平は一人で敵に向かって威勢よく名乗りを上げる
・今井兼平は敵に矢を放つ 相手も大量の矢を放つ
・木曽殿は粟津の松原へ駆けるが、馬に乗ったまま土の深い田に入ってしまう
・三浦の石田次郎為久に追いつかれ、矢を射られてしまう
・最期は石田の家来に首をはねられる
・今井兼平は木曽殿の死を耳にして、馬から飛び落ちて自害する
あらすじを大体理解した上で、もう一度本文を読んでみましょう。
今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙ふんばり立ちあがり、大音声あげて名のりけるは、「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。木曽殿の御乳母子、今井四郎兼平、生年三十三にまかりなる。さるものありとは鎌倉殿までもしろしめされたるらんぞ。兼平討つて見参にいれよ。」とて射残したる八筋の矢を、差しつめ引きつめさんざんに射る。死生は知らず、やにはに敵八騎射落とす。その後打物抜いて、あれに馳せ合ひ、これに馳せ合ひ切つてまはるに、面を合はするものぞなき。分どりあまたしたりけり。ただ、「射とれや。」とて、中に取り込め、雨の降るやうに射けれども、鎧よければ裏かかず、空き間を射ねば手も負はず。
木曽殿はただ一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日、入相ばかりのことなるに、薄氷は張つたりけり、深田ありとも知らずして、馬をざつとうち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。今井が行方のおぼつかなさに、振り仰ぎ給へる内甲を、三浦石田次郎為久、追つかかつて、よつ引いてひやうふつと射る。痛手なれば、真甲を馬の頭に当てて、うつぶし給へるところに、石田が郎等二人落ち合うて、つひに木曽殿の首をば取つてんげり。太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声をあげて、「この日ごろ日本国に聞こえさせ給ひつる木曽殿をば、三浦石田次郎為久が討ちたてまつたるぞや。」と名のりければ、今井四郎いくさしけるが、これを聞き、「今はたれを庇はんとてか、いくさをもすべき。これを見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本。」とて、太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫かつてぞ失せにける。
さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。
おわりに
今回で「木曽殿の最期」は終わりです。『平家物語』は単なる戦いの記録ではなく、そこに様々な人間模様が現れているのが非常に面白いですね。『平家物語』は様々な入門書や漫画、アニメも作られているので、時間があるときにぜひ見てみてください。アニメはAmazonプライムなどで見ることができますよ。では、またお会いしましょう。
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