はじめに
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先生、『平家物語』って、源氏と平家の戦いの話ですよね。ということは一の谷とか、屋島とか、壇ノ浦とかの戦いが書いてあるのですか?
そうだよ。源氏と平家の戦いは小学生でも中学生でも歴史の授業で勉強するから、知っている人も多いよね。今回は鎌倉幕府の初代将軍源頼朝の異母兄弟である、木曽義仲(源義仲)の最後の戦いについてお話していこう。
『平家物語』について
まずは、『平家物語』についての説明から始めます。『平家物語』は冒頭文が非常に有名です。ぜひ声に出して読んでください。できれば暗誦してもらいたい文章ですね。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ。ひとへに風の前の塵に同じ。
(訳)祇園精舎の鐘の音には、すべてのものは無常であるという(真理の)響きがある。(釈迦が入滅したとき白色に変じたと言われる)娑羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという道理を表す。おごり高ぶっている人も長くはつづかない。(それは)まったく春の夜の夢のよう(に短くてはかないもの)である。勢いが盛んな者もついには滅んでしまった。(それは)まったく(吹く)風の前の塵と同じ(ように、はかなく消えてしまうの)である。
ここからも分かるように、『平家物語』は、平家一門の盛衰を描く軍記物語(戦記物語)です。諸行無常,盛者必衰という仏教的無常観に基づいて平家の権勢の興隆もやがて衰えていくことを語っています。原作者・成立年代は分かっていませんが,13世紀の末には盲目の琵琶法師たちによって語り伝えられ、それが徐々に加筆・修正を加えられて今の形になったと考えられています。ただ、『徒然草』の中で、信濃前司行長が書いたとあります。
琵琶法師が話を語る形式のため、文章は口語体で読みやすく、音便も多く用いられています。また、現代の言葉と同じように、漢語と和語を融合させた文体です。これを「和漢混淆文」といいます。以上が簡単な『平家物語』の説明です。
「木曽殿の最期」について 第1回
では、始めましょう!することはいつも通り以下の3つです。
1本文を読む
2登場人物の確認
3内容を簡単に理解
『平家物語』は口語体のため、読みやすいですが、文章は非常に長くなります。3回に分けてお話します。
本文を読む
何度も本文を読んでみて、内容を想像してみるのが予習の最も大事なことです。特に初めて読むときは、意味調べはせずに読んでみましょう。今回は特に登場人物をしっかり確認し、それぞれがどのようなことを言っているか、どのような行動をしているかを考えていきましょう。
木曽左馬頭、その日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾をどしの鎧着て、鍬形うつたる甲の緒しめ、いかものづくりの大太刀はき、石打ちの矢の、その日のいくさに射て少々残つたるを頭高に負ひなし、滋籐の弓持つて、聞こゆる木曽の鬼葦毛といふ馬の、きはめて太うたくましいに、黄覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。鐙ふんばり立ちあがり、大音声をあげて名のりけるは、「昔は聞きけんものを、木曽の冠者、今は見るらん、左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲ぞや。甲斐の一条次郎とこそ聞け。互ひによい敵ぞ。義仲討つて兵衛佐に見せよや。」とて、をめいて駆く。一条次郎、「ただ今名のるは大将軍ぞ。余すなものども、漏らすな若党、討てや。」とて、大勢の中に取りこめて、我討つとらんとぞ進みける。木曽三百余騎、六千余騎が中を縦さま、横さま、蜘蛛手、十文字に駆け割つて、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこを破つて行くほどに、土肥次郎実平、二千余騎でささへたり。それをも破つて行くほどに、あそこでは四五百騎、ここでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を駆け割り駆け割り行くほどに、主従五騎にぞなりにける。 五騎がうちまで巴は討たれざりけり。木曽殿、「おのれは疾う疾う、女なれば、いづちへも行け。我は討ち死にせんと思ふなり。もし人手にかからば、自害をせんずれば、木曽殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど言はれんこともしかるべからず。」とのたまひけれども、なほ落ちも行かざりけるが、あまりに言はれたてまつて、「あつぱれ、よからう敵がな。最後のいくさして見せたてまつらん。」とてひかへたるところに、武蔵の国に聞こえたる大力、御田八郎師重、三十騎ばかりで出できたり。巴その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べて、むずととつて引き落とし、わが乗つたる鞍の前輪に押しつけて、ちつとも働かさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。その後、物具脱ぎ捨て、東国の方へ落ちぞ行く。手塚太郎討ち死にす。手塚別当落ちにけり。
場面を理解するために
このお話を理解するためには、木曽義仲(源義仲・木曽殿)について知る必要があります。
木曽義仲は、1180年に挙兵し平教盛の追討軍を破って北陸を平定します。その後、1183年に倶利伽羅峠で平維盛に大勝して入京し、後白河法皇から平家追討の名を受けて、平家を都落ちさせます。しかし、入京後の義仲軍は横暴な行為で京都の人々や朝廷・貴族の反発を招き、ついには後白河法皇から追討の命令を下されてしまいます。1184年、後白河法皇と手を組んだ源頼朝によって派遣された、源範頼・義経軍との宇治川の戦いに敗れて、義仲は京都を出ていきます。敗走した義仲は琵琶湖畔大津に向かいますが、その後どうなったのか、それがここからの文章に描かれています。以上、木曽義仲について、本文に関係することを中心にお話しました。詳しくはぜひ自分で調べてみてください。
内容を簡単に理解
・木曽義仲(木曽殿)の武器や鎧、乗っている馬などの説明
・木曽殿が名乗りを挙げて、相手方に進軍する
・甲斐一郎次郎、土肥二郎実平の兵を突破
・木曽殿はとうとう残り5騎になる
・木曽殿は寵愛する巴に逃げるよう説得する
・巴は最後の戦いを仕掛け、東国へ落ちていく
登場人物の確認
第1回の登場人物は以下のとおりです。
木曽殿(左馬頭兼伊予守、朝日の将軍、源義仲)→主人公
甲斐一条次郎(源忠頼)→義仲に対峙
土肥次郎実平→義仲に対峙
巴→義仲の寵愛を受けた女性 武勇にすぐれる
御田八郎師重→巴にあっさり殺される
手塚太郎、手塚別当→義仲の家来、太郎は敗死、別当は負傷して戦場を離脱
理解しにくい箇所の解説を見る
以下の3箇所を詳しく解説していきます。
- 昔は聞きけんものを、木曽の冠者、今は見るらん
- 女を具せられたりけりなんど言はれんこともしかるべからず
- あつぱれ、よからう敵がな
今回は上記の3箇所まで間がかなりあるので、ほぼ全文訳で内容を示します。
木曽左馬頭は、その日の装束には、赤地の錦を織り出した鎧直垂の上に、唐綾おどし(=中国渡来の綾織の絹を紐状にして、鉄の鎧の材料の小板をつづっている)の鎧を着て、鍬形(=金属の飾り)を打ってある甲の緒を締め、いかめしいつくりの大太刀を腰につけ、石打の矢で、その日の合戦で射て少し残っている矢を頭の上高くに矢筈(=矢の一端の弦にかける部分)がくるように背負い、滋籐の弓を持って、名高い木曽の鬼葦毛という馬で、非常に太くたくましい馬に、金覆輪(=縁を金色の金具で飾る)の鞍を置いて乗っていた。鐙(=足を踏みかける馬具)をふんばって立ち上がり、大声をあげて名乗った。そこでの台詞が以下の文です。
冒頭に服装の記述が細かく表現している(その日の装束には〜鞍を置いて乗っていた)のは、木曽義仲の大将軍としての最期を美しく描くための仕掛けです。
①昔は聞きけんものを、木曽の冠者、今は見るらん
→(訳)昔は聞いたであろうが、木曽の冠者(という勇猛な少年のこと)を、そして今は(その姿をお前たちは目の前に)見ているだろう
この部分は、義仲が、敵である甲斐の一条次郎に向かって、威勢よく自分が大将の木曽義仲であることを宣言しているシーンです。『平家物語』は琵琶法師による「語りもの」であるため、音便が多用されていますが、ここでは、「けん」「らん」と撥音便が現れています。
文法的には、「聞きけん」の「けん」が過去推量の助動詞「けむ」の連体形、「ものを」が逆接の接続助詞(〜が/〜のに)、「見るらん」の「らん」が現在推量の助動詞「らむ」の終止形です。「昔」と「けん」、「今」と「らん」を対応させているだけでなく、「聞く」と「見る」も対応させています。つまり、「昔は聞きけん」と「今は見るらん」が対句のような働きをしていて、文章に彩りを与えているわけです。
(木曽殿)「互いによい相手だぞ。義仲を討って兵衛佐(=源頼朝)に見せよ。」と言って、大声をあげて馬に乗って走る。一条次郎は、「ただ今名のるのは大将軍(=木曽義仲)だぞ。逃がすなものども、討ち漏らすな若い武士たち、討て。」と言って、大勢の中に取り囲んで、『我こそが(義仲を)討ち取ろう』と進んだ。木曽の三百余騎は、(敵の)六千余騎の中を縦に、横に、蜘蛛手のように、十文字に(縦横無尽に)駆け破って、(敵の)背後にさっと抜け出ると、五十騎ほどになってしまった。そこを破って行くうちに、土肥次郎実平が二千余騎で守っていた。それをも破って行くうちに、あちらでは四五百騎、こちらでは二三百騎、百四五十騎、百騎ほどの中を駆け破り駆け破りして行くうちに、主従五騎になってしまった。
五騎になるまで巴は討たれなかった。木曽殿は、「おまえは早く早く、女なので、どこへでも行け。私は討ち死にしようと思うのだ。もし敵の手にかかるならば、自害をしようと思うので、木曽殿が最後のいくさに、・・・
②女を具せられたりけりなんど言はれんことも、しかるべからず
→(訳)『女を連れていらっしゃったなあ』などと(敵に)言われるようなことも(将軍としての最期としては)ふさわしくない
「具せられたりけり」に、助動詞が3つ連なっています。「られ」が尊敬の助動詞「らる」の連用形、「たり」が完了の助動詞「たり」の連用形、「けり」はここを会話文ととらえて、詠嘆の助動詞「けり」の終止形としました。ここは、相手に後になって「木曽殿は愛人を連れて戦を行っていた」と言われることは武士としては大きな屈辱だと感じている場面です。
次に「言はれんことも」にも、助動詞が2つ連なっています。「れ」は受身の助動詞「る」の未然形、「ん」が婉曲の助動詞「む」の連体形です。よって、「言われるようなことも」と解釈できます。
最後に、「しかるべからず」は、「しかるべし」という語に打消の助動詞「ず」がついた形で考えます。
「しかるべし」(連語)
1適当だ ふさわしい
2りっぱだ すぐれている
3そうなる運命だ そういう因縁である
今回は1の「ふさわしい」が文に合うと思いますが、特に3の「運命、因縁」という意味をぜひ知っておいてください。古文の世界では、仏教にまつわる話が多く出てきます。仏教思想、特に「輪廻転生」という考え方から、この3のような意味がよく使われます。
以上をまとめると、「『女を連れていらっしゃったなあ』などと言われるようなこともふさわしくない」という現代語訳になります。
それでも巴は去っていきませんでしたが、あまりにも木曽殿に同じことを言われるために、巴は次のようなことを言います。
③あつぱれ、よからう敵がな
→(訳)ああ、(木曽殿にお見せするのに)立派な敵がいるといいなあ。
「あつぱれ」は「あはれ」が促音便化したもので、語頭に単独で出てくるときは感動詞となります。賛美・感動して発する語で「ああ」と訳せます。
次に、「よからう敵がな」です。「よからう」はク活用の形容詞「よし」の未然形「よから」に婉曲の助動詞「む」の連体形がついたものです。「む」がウ音便になっていますが、現代語の「(手紙を)書こう」の「う」と同じです。「がな」は終助詞で、自己の願望を表して「…がほしいなあ/…があればなあ」と訳します。
木曽殿に自分のもとを去るように再三言われたので、それを受け入れて最後の戦をして、自分の姿を木曽殿の脳裏に焼き付けようと考えている場面です。巴の悲しみと覚悟が現れている言葉ですね。そこで巴は大力の御田八郎師重という人物を見つけて、あっさり勝利します。その後巴は退場ということになります。
(巴は)最後の戦いをして(義仲に)お見せ申し上げよう。」と言って馬を引き止めて待っているところに、武蔵の国で有名な大力、御田八郎師重が、三十騎ほどで現れた。巴はその中に駆け入り、御田八郎に(馬を)強引に並べて、ぐいっと組み付いて引き落とし、自分が乗っている鞍の前輪に押しつけて、少しも身動きさせず、首をひねり切って捨ててしまった。その後、鎧甲を脱ぎ捨てて、東国の方へ落ちていく。(義仲の乳母子である)手塚太郎は討ち死にする。手塚別当は落ちていった。
今回のまとめ
『平家物語』は古文の中でも比較的読みやすいので、細かい文法よりもお話の内容をしっかりと理解するほうが大事です。
・木曽義仲(木曽殿)の武器や鎧、乗っている馬などの説明
・木曽殿が名乗りを挙げて、相手方に進軍する
・甲斐一郎次郎、土肥二郎実平の兵を突破
・木曽殿はとうとう残り5騎になる
・木曽殿は寵愛する巴に逃げるよう説得する
・巴は最後の戦いを仕掛け、東国へ落ちていく
あらすじを大体理解した上で、もう一度本文を読んでみましょう。
木曽左馬頭、その日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾をどしの鎧着て、鍬形うつたる甲の緒しめ、いかものづくりの大太刀はき、石打ちの矢の、その日のいくさに射て少々残つたるを頭高に負ひなし、滋籐の弓持つて、聞こゆる木曽の鬼葦毛といふ馬の、きはめて太うたくましいに、黄覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。鐙ふんばり立ちあがり、大音声をあげて名のりけるは、「昔は聞きけんものを、木曽の冠者、今は見るらん、左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲ぞや。甲斐の一条次郎とこそ聞け。互ひによい敵ぞ。義仲討つて兵衛佐に見せよや。」とて、をめいて駆く。一条次郎、「ただ今名のるは大将軍ぞ。余すなものども、漏らすな若党、討てや。」とて、大勢の中に取りこめて、我討つとらんとぞ進みける。木曽三百余騎、六千余騎が中を縦さま、横さま、蜘蛛手、十文字に駆け割つて、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこを破つて行くほどに、土肥次郎実平、二千余騎でささへたり。それをも破つて行くほどに、あそこでは四五百騎、ここでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を駆け割り駆け割り行くほどに、主従五騎にぞなりにける。
五騎がうちまで巴は討たれざりけり。木曽殿、「おのれは疾う疾う、女なれば、いづちへも行け。我は討ち死にせんと思ふなり。もし人手にかからば、自害をせんずれば、木曽殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど言はれんこともしかるべからず。」とのたまひけれども、なほ落ちも行かざりけるが、あまりに言はれたてまつて、「あつぱれ、よからう敵がな。最後のいくさして見せたてまつらん。」とてひかへたるところに、武蔵の国に聞こえたる大力、御田八郎師重、三十騎ばかりで出できたり。巴その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べて、むずととつて引き落とし、わが乗つたる鞍の前輪に押しつけて、ちつとも働かさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。その後、物具脱ぎ捨て、東国の方へ落ちぞ行く。手塚太郎討ち死にす。手塚別当落ちにけり。
おわりに
今回は「木曽殿の最期」のうち、木曽殿の最後の戦いと、愛する巴と別れる場面までを読んでいきました。『平家物語』は「無常観」をベースにして文章が描かれているので、登場人物の最期も生き生きと描かれます。読んでいて辛くなる場面もありますが、テンポがよいので、非常に読んでいて心地の良い文章でもあります。ぜひ授業で読んだものだけでなく、その他の文章にも触れてもらいたいと思っています。では、次の回でまたお会いしましょう。
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