「和泉式部、保昌が妻にて」(大江山)『十訓抄』解説・テスト対策 第1回

説話
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はじめに

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生徒
生徒

先生、今回は和歌が出てきました。この和歌は百人一首で見たことはありますが、どんな意味かはまったく分かりません。

先生
先生

和歌の解釈は難しいね。でも、自分の力で読めるようになるにはどうしたらいいのか。考える順番を示していこうと思うよ。

「和泉式部、保昌が妻にて」(大江山)予習・解説編 第1回

今回は『十訓抄』という説話集に載っている話で、教科書には「大江山」と題名がつけられていることもあります。このお話は1年生の初期に習う場合と、2年生の初期に習う場合とがあります。今回は内容に重きをおいて説明していきたいと思います。
授業の予習としてやっておきたいことは以下の3点です。

1本文を読む
2登場人物の確認
3お話を簡単に理解

本文を読む

 電車やバスの中では難しいですが、自宅で読んでいる時はぜひ声に出して読んでみてください。そうすると、読みにくい箇所が分かると思います。何度も本文を読んでみて、内容を想像してみるのが予習の最も大事なことです。その際、意味調べなどしないことがポイントです。

 和泉いづみしきやすまさにてたんくだりけるほどに、きやううたあはせありけるに、しきぶのないうたみにとられてみけるを、さだよりのちゆうごんたはぶれて、しきぶのないありけるに、「たんつかはしけるひとまゐりたりや。いかにこころもとなくおぼすらむ。」とひて、つぼねまへぎられけるを、よりなからばかりでて、わづかに直衣なほしそでをひかへて、
  おほやまいくののみちとほければまだふみもあまはしだて
みかけけり。
ーーーー(ここから第2回)ーーーー
おもはずに、あさましくて、「こはいかに。かかるやうやはある。」とばかりひて、へんにもおよばず、そではなちて、げられけり。しき、これよりうたみのにおぼえにけり。
 これはうちまかせてのうんのことなれども、かのきやうこころには、これほどのうた、ただいまだすべしとはられざりけるにや。

登場人物の確認

 和泉式部  (藤原)保昌  
 小式部内侍  定頼中納言

和泉式部と保昌ってどこで出てくるの?最初しか出てこないけど?!

読んでいくと分かりますが、(藤原)保昌は最初に名前が出るだけであとは全く出てきません。和泉式部も都から遠く離れた丹後地方(天橋立近くといえば分かりやすいでしょうか)にいるので、直接的には出てきません。ただ、この和泉式部が文章を読むうえでのキーになるので、無視するわけにはいかないですね。もちろん話の中心は小式部内侍と定頼中納言のやり取りになります。

お話を簡単に理解

第一段落
・和泉式部は藤原保昌の妻で、今は丹後に下っている
・その時、都で「歌合うたあは」が開かれるが、和泉式部の娘の小式部内侍が歌よみに選ばれる
・定頼中納言が、小式部内侍の局の前を通るときに「母の手紙はまだか」と言う
・小式部内侍は、定頼中納言の袖を引っ張りながら歌を詠む
ーーーー(ここから第2回)ーーーー
・定頼中納言は歌の内容に驚き、返歌もせずに逃げていく
第二段落
・このエピソードにより、小式部は歌よみの世界で評判になる
第三段落
・作者の感想 定頼中納言は、小式部の実力を知らなかったのであろうか

「歌合せ」については、後で説明するね。

理解しにくい箇所の解説

次に、理解しにくい箇所を解説していきます。

  • ①丹後へ遣はしける人は参りたりや
  • ②いかに心もとなくおぼすらむ
  • ③【和歌】大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立

①に入る前に、大まかな場面の整理をしておきます。

いま、和泉式部は今の夫について丹後(現在の京都府北部)にいます和泉式部は、当時の有名な和歌の達人です。数々の情熱的な恋歌が現在にも伝わっています。その和泉式部の娘である小式部内侍が今回の主人公です。
この和泉式部が丹後に下っていたとき、京都で「歌合うたあはせ」という催しが行われようとしていました。「歌合」とは、歌人が左右二組に分かれ、決められた題で詠んだ歌を出し合って歌の優劣を競う催しです。
その「歌合せ」の歌い手に小式部内侍が選ばれました。そこで、定頼中納言(藤原定頼=当時の和歌の達人である藤原公任きんとうの息子)が小式部内侍に余計なことを言います

①丹後へ遣はしける人は参りたりや

「丹後へ遣はしける人」とは、「丹後国に送った使いの者」ということですが、その「使いの者」が京都へ戻ってきたか、という意味です。解釈は簡単でしょう。
では、小式部内侍はどうして丹後国に使いをやる必要があると定頼中納言は考えたのでしょう?

お母さんに、いじめられたって訴えたかったのかな?

その答えは以下の板書を見てください。

板書にある通り、定頼中納言は和泉式部の力を借りよう(代作してもらおう)としていると考えているのです。

②いかに心もとなくおぼすらむ

→(訳)(お母さんからの手紙が届かなくて)どんなにじれったくお思いになっているでしょう。(お思いでいらっしゃるでしょう)

「いかに」は疑問詞全般を表します。ここでは、「どんなに/どれほど」という意味です。

次の、「心もとなく」が重要単語です。いくつも意味がありますが、一つ一つ丁寧に覚えましょう。

「心もとなし」(形・ク活)←心の抑えがきかず、あれこれ思い巡らされて落ち着かない
 1じれったい、待ち遠しい 
 2不安だ、気がかりだ  
 3ぼんやりしている
、はっきりしない

それぞれ2つずつ意味を書きましたが、後ろの意味「待ち遠しい、気がかりだ、はっきりしない」は「おぼつかなし」という語で出てきます。つまり、2つの語はほぼ同じであるということですね。ただ「心もとなし」は第一義(もとになる意味)が「じれったい」で、「おぼつかなし」「はっきりしない」が第一義であるという違いがあります。
ここでは第一義である「じれったい、待ち遠しい」です。では、何が待ち遠しいのでしょうか?
その答えも、下の板書を見てください。

「おぼす」は「思ふ」の尊敬語で、「お思いになる」という意味になります。また、「らむ」は現在推量の助動詞で、「〜(て)いるだろう」ですが、尊敬語と合わせて「〜ているでしょう」と訳すとすっきりとした訳になります。

定頼中納言は、小式部内侍に「(代作してもらう)母の手紙が来なくて、待ち遠しいですよねぇ」と嫌味を言っているんですよね。なんか腹が立つなあ。

まあそれも分かるけど、定頼中納言にバカにされた小式部内侍は、怒るでもなく反論するでもなく、ただ定頼中納言の袖を少し引っ張るんだよ。そして、次の和歌を詠みました。

③【和歌】大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立

まずは、この和歌を表面的に理解してみましょう。それほど古文の知識がなくても大体の意味は分かりそうです。「大江山へ行くこの道が遠いので、まだ手紙は見ていない。天橋立の。」くらいでしょうか。これだけでも、なんとなく「母は遠くにいるので、(母がいる)天橋立からの手紙は見ていない」という内容はつかめそうですね。予習の段階ではそれで十分だと思います。あとは、この和歌に含まれる修辞技法を理解し、さらに深い意味を把握すれば良いと思います。

それでは、歌の内容を解説しておきます。気になる人は板書を見てください。

最初に気になるのは「『大江山いくのの道』が遠い」とはどういうことかがやや分かりにくいということです。「大江山」は京都から丹後の国へと通じる山のことで、都と丹後の国の中間に存在します。また、「いくの」は「生野」と「行く」の掛詞で、「生野」とは現在の京都府福知山市にある地名です。つまり、「大江山を越えて生野を通って丹後国まで行くその道のりが遠いので」と解釈できるわけです。

また、「まだふみも見ず」は「手紙を見て(読んで)いない」だけでなく、「(丹後国の地を)踏んでいない」という意味にも解釈できます。つまり、「ふみ」は「文」と「踏み」の掛詞ということになります。
「見ず」が終止形になっているので、ここで意味が切れています。つまり、これは四句切れの和歌です。

加えて、最後が「丹後国」ではなく「天橋立」になっているのは、「天橋立」が有名な景勝地で和歌によく詠まれる場所(これを「歌枕」という)であるだけではなく、前に「踏み」を使っているので、その関係のある「橋」という言葉をあえて用いているのです。つまり、「踏み」は「橋」の縁語です。

以上を踏まえて、板書の訳を確認してみてください。

このような和歌を眼の前で詠まれた定頼中納言はどのような対応をとったのか、それは第2回にお話します。

次回は、この和歌がどれほど素晴らしい歌だったのか、そこに迫っていくよ!

テスト対策 第1回

本文の確認

テスト直前でもすべきことの基本は、「本文を読むこと」です。これまで学習した内容をしっかり思い出しながら読みましょう。「テスト対策」はあえてふりがなをつけていません。不安な場合は、このページの上部「本文を読む」で確認してください。

 和泉式部、保昌が妻にて丹後に下くだりけるほどに、京に歌合ありけるに、小式部内侍、歌詠みにとられて詠みけるを、定頼中納言たはぶれて、小式部内侍ありけるに、「丹後へ遣はしける人は参りたりや。いかに心もとなく思すらむ。」と言ひて、局の前を過ぎられけるを、御簾よりなからばかり出いでて、わづかに直衣の袖をひかへて、
  大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立
と詠みかけけり。

あらすじの確認

・和泉式部は藤原保昌の妻で、今は丹後に下っている
・その時、都で「歌合うたあはせ」が開かれるが、和泉式部の娘の小式部内侍が歌よみに選ばれる
・定頼中納言が、小式部内侍の局の前を通るときに「母の手紙はまだか」と言う
・小式部内侍は、定頼中納言の袖を引っ張りながら歌を詠む

出題ポイント

以下の3項目が何も見ずに訳すことができるか確認してください。

  • 丹後へ遣はしける人は参りたりや
  • いかに心もとなくおぼすらむ
  • 《和歌》大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立

お話を理解するための前提

いま、和泉式部は今の夫について行って丹後(現在の京都府北部)にいます。和泉式部は、当時の有名な和歌の達人です。数々の情熱的な恋歌が現在にも伝わっています。その和泉式部の娘である小式部内侍が今回の主人公です。
この和泉式部が丹後に下っていたとき、京都で「歌合うたあはせ」という催しが行われようとしていました。「歌合」とは、歌人が左右二組に分かれ、決められた題で詠んだ歌を出し合って歌の優劣を競う催しです。
その「歌合せ」の歌い手に小式部内侍が選ばれました。そこで、定頼中納言(藤原定頼=当時の和歌の達人である藤原公任きんとうの息子)が小式部内侍に余計なことを言います。

丹後へ遣はしける人は参りたりや

《出題ポイント!》
「丹後へ遣はしける人」とは誰のこと?
なぜ「丹後」へ使いをやる必要があるの?

→(訳)丹後の国へ送った使いは参りましたか

「丹後へ遣はしける人」とは、「丹後国に送った使いの者」ということですが、その「使いの者」が京都へ戻ってきたか、という意味です。解釈は簡単でしょう。
では、小式部内侍はどうして丹後国に使いをやる必要があると定頼中納言は考えたのでしょう?

その答えは、定頼中納言は、小式部の内侍が和泉式部の力を借りよう(代作してもらおう)としていると考えていたからです。

いかに心もとなくおぼすらむ

《出題ポイント!》
「いかに」「心もとなし」「おぼす」の意味
「心もとなく」思っている内容

→(訳)(お母さんからの手紙が届かなくて)どんなにじれったくお思いになっているでしょう。(お思いでいらっしゃるでしょう)

「いかに」は疑問詞全般を表します。ここでは、「どんなに/どれほど」という意味です

次の、「心もとなく」「心もとなし」の連用形です。この言葉は、心の抑えがきかず、あれこれ思い巡らされて落ち着かないことを指しますが、「心もとなし」の多くがじれったい、待ち遠しい」となります。では、何が待ち遠しいのでしょうか?
それは、「使いが返ってくること」です。母からの手紙を持つ使いが帰ってこないから「じれったい」のです。もちろん、これは定頼中納言の想像の話です。実際に小式部内侍が「心もとなく」思っているかはわかりません。
「おぼすらむ」の「おぼす」は「思ふ」の尊敬語で、「お思いになる」という意味になります。また、「らむ」は現在推量の助動詞で、「〜(て)いるだろう」ですが、尊敬語と合わせて「〜ているでしょう」と訳すとすっきりとした訳になります。

《和歌》大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立

《出題ポイント!》
和歌の解釈
和歌の修辞技法(掛詞・縁語)

→(訳)大江山を越え、生野を通って行くその道のりが遠いので、まだ天橋立(の地)は踏んでみたことがありません。もちろん(天橋立がある丹後の国に住む)母からの手紙も見ていません。   

解釈の上で最初に気になるのは「『大江山いくのの道』が遠い」とはどういうことかがやや分かりにくいということです。「大江山」は京都から丹後の国へと通じる山のことで、都と丹後の国の中間に存在します。また、「いくの」は「生野」と「行く」の掛詞で、「生野」とは現在の京都府福知山市にある地名です。つまり、「大江山を越えて生野を通って丹後国まで行くその道のりが遠いので」と解釈できるわけです。

また、「まだふみも見ず」は「手紙を見て(読んで)いない」だけでなく、「(丹後国の地を)踏んでいない」という意味にも解釈できます。つまり、「ふみ」は「文」と「踏み」の掛詞ということになります。
「見ず」が終止形になっているので、ここで意味が切れています。つまり、これは四句切れの和歌です。

加えて、最後が「丹後国」ではなく「天橋立」になっているのは、「天橋立」が有名な景勝地で和歌によく詠まれる場所(これを「歌枕」という)であるだけではなく、前に「踏み」を使っているので、その関係のある「橋」という言葉をあえて用いているのです。つまり、「踏み」は「橋」の縁語です。

この和歌に用いられている修辞技法のまとめ
「いくの」「生野」「行く」掛詞
「ふみ」「踏み」「文(手紙)」掛詞
「踏み」「橋」縁語
四句切れ
「天橋立」「大江山」(「生野」)は歌枕

文法の確認

動詞・形容詞の確認です。あまり多くは出題せず、よく出るものに絞っています。用言については、以下で確認してください。

本文中の青太字の活用の種類と活用形を答えなさい。なお、(エ)(ク)(コ)は形容詞、他は動詞である。

 和泉(いづみ)(しき)()(やす)(まさ)()にて丹後に(ア)下りけるほどに、京に(うた)(あはせ)()(イ)ありけるに、()(しき)(ぶの)(ない)()、歌詠みにとられて詠みけるを、(さだ)(よりの)(ちゆう)()(ごん)たはぶれて、小式部内侍ありけるに、「丹後へ(ウ)遣はしける人は参りたりや。いかに(エ)心もとなく(オ)思すらむ。」と言ひて、(つぼね)の前を(カ)過ぎられけるを、()()よりなからばかり(キ)出でて、わづかに直衣(なほし)の袖をひかへて、
  大江山いくのの道の(ク)遠ければまだふみも(ケ)(あま)(はし)(だて)
と詠みかけけり。思はずに、(コ)あさましくて、「こはいかに。かかるやうやはある。」とばかり言ひて、返歌にも及ばず、袖を引き放ちて、(サ)逃げられけり。
 小式部、これより歌詠みの世におぼえ(シ)出で来にけり。

解答は以下のとおりです。

(ア)ラ行四段活用・連用形
(イ)ラ行変格活用・連用形
(ウ)サ行四段活用・連用形
(エ)ク活用・連用形
(オ)サ行四段活用・終止形
(カ)ガ行上二段活用・未然形
(キ)ダ行下二段活用・連用形
(ク)ク活用・已然形
(ケ)マ行上一段活用・未然形
(コ)シク活用・連用形
(サ)ガ行下二段活用・未然形
(シ)カ行変格活用・連用形

おわりに

今回は「大江山」と題されることの多い『十訓抄』の文章を第1回でした。和歌の解釈はできましたか。この文章は短いし、内容が分かりやすいので古文の授業では必ずといっていいほど取り扱います。ここで、ぜひ和歌を楽しむ気持ちを持ってもらえたらなと思います。では、また第2回でお会いしましょう。

第2回は以下をご覧ください。

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