「東下り」『伊勢物語』解説・テスト対策 第2回

物語
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はじめに

自己紹介はこちら

 今回は『伊勢物語』第九段の第2回です。多くの教科書が「東下り(あづま下り)」という題名で載せています。前回は京都を出た「男」が三河の国(愛知県東部)にまで行き、旅の心を歌にしたという話でしたね。その和歌の説明に多くを費やしました。

前回の復習

前回の内容を板書で確認してください。第1回の内容は以下をご覧ください。

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「東下り」予習・解説 第2回

 さて、今回は「男」がさらに東に進み、駿河の国(静岡県の中部)にたどり着きます。では、始めていきましょう。することはいつも通り以下の3つです。

1本文を読む
2登場人物の確認
3内容を簡単に理解

本文を読む

 ()()きて、駿(する)()(くに)にいたりぬ。()()(やま)にいたりて、わが()らむとする(みち)はいと(くら)(ほそ)きに、(つた)(かへで)(しげ)り、もの(こころ)(ぼそ)く、すずろなる()()ることと(おも)ふに、()(ぎやう)()()ひたり。「かかる(みち)はいかでかいまする。」と()ふを()れば、()(ひと)なりけり。(きやう)に、その(ひと)(おほん)もとにとて、(ふみ)()きてつく。
  駿(する)()なる()()(やま)べのうつつにも(ゆめ)にも(ひと)にあはぬなりけり
 ()()(やま)()れば、()(つき)のつごもりに、(ゆき)いと(しろ)()れり。
  (とき)()らぬ(やま)()()()いつとてか鹿()()まだらに(ゆき)()るらむ
その(やま)は、ここにたとへば、()()(やま)二十(はたち)ばかり(かさ)()げたらむほどして、なりは(しほ)(じり)のやうになむありける。

 何度も本文を読んでみて、内容を想像してみるのが予習の最も大事なことです。ただし、今回は3回に分けて行いますので、これはその2です。前の部分は第1回、後の部分は第3回をご覧ください。

登場人物の確認

 男 (友) 修行者すぎょうざ

第2回は「男」がさらに東に進んでいると、山の中で修行者に出会うという話です。「友」はその場にいるのでしょうが、第2回のお話の中にその人の行動は書かれていません。

お話を簡単に理解

・更に進んで、駿河の国(静岡県中部)の宇津の山にたどり着く
・山道は暗く、細い上につたやかえでが茂っており、心細い
・その山の中で、知人の「修行者」に会う
・京に戻る途中の「修行者」に都に残した女性への手紙を託す
・富士山が遠くに見えるので、それを和歌にする

ここも、和歌以外の箇所は割と読みやすいですね。ただし、いくつか重要古語が出ているので、そこは後で解説します。

理解しにくい箇所の解説を見る

以下の5箇所を詳しく解説していきます。

男たち一行はさらに東に進み、駿河の国(静岡県中部)にたどり着く
宇津の山(静岡市と藤枝市の境にある山)に着いて、道が暗く、草木も生い茂っているので心細く感じる

④すずろなる目を見ること

→(訳)(男たちは)思いがけずひどい目をみることだ

「すずろなり」は重要単語です。漢字では「漫ろなり」と書きます。「漫」という漢字の意味が分かるとおおよその意味がつかめます。これは「漫然と」で言い表せるように「これといった意味もなく、なんとなく」というイメージの言葉です。また、「そぞろなり」とも言います。

すずろなり

すずろなり」(形動・ナリ活)
 1(なんという)わけもない  2思いがけない

ここでは2の「思いがけない」ですが、直前の「もの心細く」から続くことを考えると、「思いがけずひどい」とするとより文脈にあった解釈になりそうです。

⑤かかる道はいかでかいまする

→(訳)(あなたのような人が)このような道に(は)どうしていらっしゃるのか。

かかる」は「かくある」がつづまった形で、「かく」が「このような」という指示副詞ですから、直訳は「このようである」です。「道」にかかっていくので、「このような(道)」で十分伝わります。

「いかでか」は「いかにしてか」がつづまった形です。「いかに」は疑問詞全般を表すので、場面に応じてどれがよいかを考えましょう。ここでは「どうして」と理由を聞くのが自然な流れです。「いかでか」は「どうして〜か、いや、〜でない」と反語で訳すことも多いのですが、ここでは内容に合わないので、疑問として「どうして」と解釈すればよいです。

また、「います」は「あり」の尊敬語です。比較的古い表現で、徐々に「おはす」が主流になっていきます。訳は「いらっしゃる」です。

これは、「修行者」のセリフです。「男」は落ちぶれても(笑)貴族ですから、尊敬語が使われるわけです。「修行者」が「男」を見て、思わず声を上げたと理解してもらえばよいでしょう。もちろん二人は顔見知りです。

「男」は「修行者」に、都にいる自分が想う女への手紙を託す

⑥《和歌》駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり

和歌が出てきました。「伊勢物語」は和歌を中心に作られているので、極端な話をすると、他の文は「和歌のための添え文」みたいなものです。つまり、和歌をなんとしても理解しなくてはならないわけです。和歌を理解していく順序は第1回の③でお話しましたね。

これもまずは、修辞技法を一切考えずに、この和歌で言いたいこと(メインテーマ)を考えみましょう。この和歌は「都のいる女への手紙」でしたね。ということは、直接的な表現かどうかはともかく「あなたに会いたい」などという内容ではないかと想像できます。その視点で見ると、メインテーマは「夢にも人にあはぬなりけり」ではないかと見当がつきますね。では、そこから解釈を始めていきましょう。

ここは「あはぬなりけり」が分かればよいでしょう。「ぬ」「なり」「けり」と助動詞が3つもつながっています。「あはぬ」と「あふ」が未然形になっているので、「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形です。連体形に接続する「なり」は断定の助動詞(伝聞推定は必ず「ざるなり」となります)、「けり」は自分の経験や感想を言っているので「詠嘆」の助動詞です。ここまでで、「夢でも(愛する人に)会わないのだなあ」と解釈できます。さらに、その上の「うつつにも」に目をやると、「うつつ」って何?ということになってきます。

「うつつ」は重要古語で、漢字で「現」と書きます。つまり「現実」を表します。そうです、直後の「夢」の対義語として現れているわけですね。

うつつ

「うつつ(現)」(名)=現実

ここで少し補足しておきます。私たちも寝ている時に「夢」を見ることがあります。夢の中で思いも寄らない人が出てくることがありますね。その時、私たちはなぜかその人のことを意識してしまいます。つまり、「自分がその人のことを(無意識にでも)考えているから夢に出てくる」と思うわけです。ですが、当時の人たちはそのようには考えませんでした。「夢にその人が出てくるのは、その人が自分のことを考えているからだ」と考えていたようなのです。つまり、この歌は「私はあなたのことを想っているのに、あなたは現実にも夢にも現れず、私のことを想ってくれていないのですね」という相手を恨む歌になっているのです。これが、この和歌のメインテーマです。

次に、「駿河なる宇津の山辺の」について考えます。まず「駿河なる」の「なる」は存在の助動詞「なり」です。断定の助動詞「なり」の元の形で、上に場所を表す名詞が来た場合、「である」ではなく「にある(にいる)」と訳します「の」は、比喩を表す「の」といって、ほとんどが和歌で使われるのですが、「〜ように」と訳します。そうすると、「駿河にある宇津の山辺」は何かのたとえということになりますね。といっても何のたとえかは見えてきません。実は、これ「宇津」と「うつつ」が同じ言葉であるということが関係しています。つまり、「駿河にある宇津の山辺の「宇津」と同じように「うつつ」にも夢にも〜」となるのです。このように同じ音で前と後ろをつなげる場合、当然後ろが伝えたいことになります。その後ろの伝えたいこと(メインテーマ)につなぐための言葉ということで、「駿河なる宇津の山辺の」は「うつつ」の「序詞」となります

以上をまとめると、板書のようになります。

→(歌訳)(私は)駿河にある宇津の山のふもとまで来ましたが、そこにある「宇津」という名と同じように、「うつつ」(現実)にも夢にもあなたには会わないものですね。

この場所から富士山(150キロほど東)を見ると

⑦五月のつごもり

→(訳)(旧暦)五月の月末

「つごもり」漢字で「月籠り」と書きます。昔の暦は太陽の動きではなく月の動きをもとにして作られていたので、毎月一日が新月、十五日(頃)が満月になります。また、一日のことを「ついたち」と呼びますが、それは「月立ち」つまり月が立ち始める日、つまり月の始めの日を指すわけです。それと同様に、「つごもり」は月が籠もる(見えなくなる)日、つまり月の終わり(月末)を指します
 さて、「五月のつごもり」は「五月の末」だということが分かりましたが、その季節を考えてみましょう。「四月〜六月」が夏であることはもう知っている人も多いでしょうが、今回の五月末というのは、現在の六月下旬から七月上旬くらいになります。つまり、時期としては完全に夏というわけです。そんな時期に富士山を見ると、頂上付近は雪が残っていたのです。

⑧《和歌》時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ

この和歌は富士山の見た目を歌っているので、内容としては分かりやすいでしょう。
富士の嶺で内容が切れているので、二句切れです。前半は冬なのに雪が残っている富士山を「時期(季節)がわかっていない」と批判しています。後半はその理由ですね。「今がいつだと思って、雪が降り積もっているのだろう」と、頂上付近に雪が残っていることを「時期がわかっていない」と言っているのですね。「鹿の子まだら」とは、上の写真を見るとイメージできますが、背中に茶色の部分と白い部分がありますよね。雪がところどころ残っているという状態を表しているわけです。また、この和歌は、助動詞が2つあって、「時しらぬ」の「ぬ」が打消の助動詞「ず」の連体形、「らむ」は現在推量の助動詞「らむ」(〜ているだろう)です。

→(歌訳)季節をわかっていない山は富士の山であるよ。今を意つと思って鹿の子の毛のようにまだ雪が降り積もっているのだろう。

「時期外れ」というのは、おそらく自分のことを言っているのでしょうね。物事がうまくいくのは、運やタイミングというのも確かにあります。逆にうまくいかないのもタイミングがあります。自分が失意のどん底で東に向かっているのは、都での運やタイミングに恵まれなかったからなのだろうという思いを込めてこの歌を詠んでいると考えると、この歌に含まれる「男」の悲痛な声が聞こえてきます。

最後に、本文では富士山は京都から見える比叡山を二十個重ねたくらいの大きさだ言っています。もちろん大げさな表現です(実際は約4倍)。都を出たことがない人間からすれば、富士山はとてつもなく大きく見えたのでしょうね。「男」はこれからその富士山のある東へさらに進んでいきます。

テスト対策 第2回

第1回のテスト対策は以下をご覧ください。

本文の確認

途中で誰に会った?2つの和歌で詠み手は何を言いたかったの?
そんなことを考えながら、読んでみてください。
「テスト対策」はあえてふりがなをつけていません。不安な場合は、このページの上部「本文を読む」で確認してください。

 行き行きて、駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦・楓は茂り、もの心細く、すずろなる目を見ることと思ふに、修行者会ひたり。「かかる道はいかでかいまする。」と言ふを見れば、見し人なりけり。京に、その人の御もとにとて、文書きてつく。
  駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり
 富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白う降れり。
  時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ
その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十ばかり重ね上げたらむほどして、なりは塩尻のやうになむありける。

読みで問われやすい語

「駿河」「蔦」「楓」「嶺」「二十」です。「するが」「つた」「かえで」「ね」「はたち」とそれぞれ読みます。「蔦」「楓」は現代語ですね。「駿河」は現在の何県かなどと問われるかもしれません。

あらすじの確認

・更に進んで、駿河の国(静岡県中部)の宇津の山にたどり着く
・山道は暗く、細い上につたやかえでが茂っており、心細い
・その山の中で、知人の「修行者」に会う
・京に戻る途中の「修行者」に都に残した女性への手紙を託す
・富士山が遠くに見えるので、それを和歌にする

出題ポイント

以下の5箇所を詳しく解説していきます。

すずろなる目を見ること

《出題ポイント!》
「すずろなる目」の意味

→(訳)(男たちは)思いがけずひどい目をみることだ

「すずろなり」は重要単語です。漢字では「漫ろなり」と書きます。「漫」という漢字の意味が分かるとおおよその意味がつかめます。これは「漫然と」で言い表せるように「これといった意味もなく、なんとなく」というイメージの言葉です。また、「そぞろなり」と出てくることもあります。すずろなり」は「1(なんという)わけもない・2思いがけない」というですが、ここでは2の「思いがけない」になります。直前の「もの心細く」から続くことを考えると、「思いがけずひどい目を見る」とするとより文脈にあった解釈になりそうです。

かかる道はいかでかいまする

《出題ポイント!》
「いまする」の主語と意味
「いかでかいまする」の訳出

→(訳)(あなたのような人が)このような道に(は)どうしていらっしゃるのか。

「かかる」は「かくある」がつづまった形で、「このようである」です。「道」にかかっていくので、「このような(道)」で十分伝わります。「いかでか」は「どうして〜か、いや、〜でない」と反語で訳すことも多いのですが、ここでは内容に合わないので、疑問として「どうして」と解釈すればよいです。また、「います」は「あり」の尊敬語です。比較的古い表現で、徐々に「おはす」が主流になっていきます。訳は「いらっしゃる」です。以上から、「いかでかいまする」は「どうしていらっしゃるのか」と解釈できます

これは、「修行者」のセリフです。「男」は落ちぶれても(笑)貴族ですから、尊敬語が使われるわけです。「修行者」が「男」を見て、思わず声を上げたと理解してもらえばよいでしょう。もちろん二人は顔見知りです。

《和歌》駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり

《出題ポイント!》
「駿河なる」の「なる」の意味
「うつつ」の意味と対義語
「夢にも人にあはぬなりけり」の解釈
「序詞」の指摘

→(歌訳)(私は)駿河にある宇津の山のふもとまで来ましたが、そこにある「宇津」という名と同じように、「うつつ」(現実)にも夢にもあなたには会わないものですね。

まずは、修辞技法を一切考えずに、この和歌で言いたいこと(メインテーマ)を考えみましょう。この和歌は「都のいる女への手紙」です。ということは、直接的な表現かどうかはともかく「あなたに会いたい」などという内容ではないかと想像できます。その視点で見ると、メインテーマは「夢にも人にあはぬなりけり」ではないかと見当がつきますね。では、そこから解釈を始めていきましょう。

ここは「あはぬなりけり」が分かればよいでしょう。「ぬ」「なり」「けり」と助動詞が3つもつながっています。「あはぬ」と「あふ」が未然形になっているので、「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形です。連体形に接続する「なり」は断定の助動詞(伝聞推定は必ず「ざるなり」となります)、「けり」は自分の経験や感想を言っているので「詠嘆」の助動詞です。ここまでで、「夢でも(愛する人に)会わないのだなあ」と解釈できます。さらに、その上の「うつつにも」に目をやると、「うつつ」って何?ということになってきます。

「うつつ」は重要古語で、漢字で「現」と書きます。つまり「現実」を表します。直後の「夢」の対義語として現れているわけですね。当時の人達は「夢にその人が出てくるのは、その人が自分のことを考えているからだ」と考えていたようなのです。つまり、この歌は「私はあなたのことを想っているのに、あなたは現実にも夢にも現れず、私のことを想ってくれていないのですね」という相手を恨む歌になっているのです。これが、この和歌のメインテーマです。

次に、「駿河なる宇津の山辺の」について考えます。まず「駿河なる」の「なる」は存在の助動詞「なり」です。断定の助動詞「なり」の元の形で、上に場所を表す名詞が来た場合、「である」ではなく「にある(にいる)」と訳します。「山辺の」の「の」は、比喩を表す「の」といって、ほとんどが和歌で使われるのですが、「〜ように」と訳します。そうすると、「駿河にある宇津の山辺」は何かのたとえということになりますね。といっても何のたとえかは見えてきません。実は、これ「宇津」と「うつつ」が同じ言葉であるということが関係しています。つまり、「駿河にある宇津の山辺の「宇津」と同じように「うつつ」にも夢にも〜」となるのです。このように同じ音で前と後ろをつなげる場合、当然後ろが伝えたいことになります。その後ろの伝えたいこと(メインテーマ)につなぐための言葉ということで、「駿河なる宇津の山辺の」は「うつつ」の「序詞」となります

五月のつごもり

《出題ポイント!》
「五月」の読み、月の異名について
「つごもり」の意味

→(訳)(旧暦)五月の月末

「五月」は「さつき」と読むのは感覚としても難しくはないような気がしますが、他の「月の読み」もできるようにしておいたほうが良いでしょう。月の異名について詳しくはこちらをご覧ください。

「つごもり」漢字で「月籠り」と書きます。昔の暦は太陽の動きではなく月の動きをもとにして作られていたので、毎月一日が新月、十五日(頃)が満月になります。また、一日のことを「ついたち」と呼びますが、それは「月立ち」つまり月が立ち始める日、つまり月の始めの日を指すわけです。それと同様に、「つごもり」は月が籠もる(見えなくなる)日、つまり月の終わり(月末)を指します
さて、「五月のつごもり」は「五月の末」だということが分かりましたが、その季節を考えてみましょう。「四月〜六月」が夏であることはもう知っている人も多いでしょうが、「五月末」というのは、現在の六月下旬から七月上旬くらいになります。つまり、時期としては完全に夏というわけです。そんな時期に富士山を見ると、頂上付近は雪が残っていたのです。

《和歌》時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ

《出題ポイント!》
「富士山」が「時知らぬ山」である理由
「鹿の子まだら」とはどのような状態?

→(歌訳)季節をわかっていない山は富士の山であるよ。今を意つと思って鹿の子の毛のようにまだ雪が降り積もっているのだろう。

この和歌は富士山の見た目を歌っているので、内容としては分かりやすいでしょう。
富士の嶺で内容が切れているので、二句切れです。前半は冬なのに雪が残っている富士山を「時期(季節)がわかっていない」と批判しています。後半はその理由ですね。「今がいつだと思って、雪が降り積もっているのだろう」と、頂上付近に雪が残っていることを「時期がわかっていない」と言っているのですね。「鹿の子まだら」とは、背中に茶色の部分と白い部分がありますよね。雪がところどころ残っているという状態を表しているわけです。また、この和歌は、助動詞が2つあって、「時しらぬ」の「ぬ」が打消の助動詞「ず」の連体形、「らむ」は現在推量の助動詞「らむ」(〜ているだろう)です。

「時期外れ」というのは、おそらく自分のことを言っているのでしょうね。物事がうまくいくのは、運やタイミングというのも確かにあります。逆にうまくいかないのもタイミングがあります。自分が失意のどん底で東に向かっているのは、都での運やタイミングに恵まれなかったからなのだろうという思いを込めてこの歌を詠んでいると考えると、この歌に含まれる「男」の悲痛な声が聞こえてきます。

《PR》「スタディコーチ」難関大学合格のための個別指導塾

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文法の確認

今回も助動詞です。「打消」「過去」「完了」の助動詞に絞って確認していきます。

問(文章2)から、「打消」「過去」「完了」の助動詞を指定の数だけ抜き出し、その文法的意味と活用形を書きなさい。 

(文章2) 「ず」2「き」1「けり」3「ぬ」1「たり」2「り」1 

 ゆきゆきて駿河の国に至りぬ。宇津の山に至りて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、つた、かへでは茂り、もの心細く、すずろなる目を見ることと思ふに、修行者会ひたり。「かかる道は、いかでかいまする。」と言ふを見れば、見し人なりけり。京に、その人の御もとにとて、文書きてつく。 
  駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人に会はぬなりけり 
 富士の山を見れば、五月の晦日に、雪いと白う降れり。 
  時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿子まだらに雪の降るらむ 
 その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十ばかり重ね上げたらむほどして、なりは塩尻のやうになむありける。 

解答は以下のとおりです。

(文章2)ゆきゆきて駿河の国に至り(完了・終)。宇津の山に至りて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、つた、かへでは茂り、もの心細く、すずろなる目を見ることと思ふに、修行者会ひたり(完了・終)。「かかる道は、いかでかいまする。」と言ふを見れば、見(過去・体)人なりけり(過去・終)。京に、その人の御もとにとて、文書きてつく。 
  駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人に会は(打消・体)なりけり(詠嘆・終) 
 富士の山を見れば、五月の晦日に、雪いと白う降れ(完了・終)。 
  時知ら(打消・体)山は富士の嶺いつとてか鹿子まだらに雪の降るらむ 
 その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十ばかり重ね上げたら(存続・未)むほどして、なりは塩尻のやうになむありける(過去・終)

おわりに

今回は「東下り」の中盤、静岡での話を中心にお話しました。和歌が2つあったので、解説が長くなりましたね。第3回はもう少し短くなると思います。では、第3回でお会いしましょう。

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