このページでは、学生時代に国語が苦手だった筆者が、この順番で学べば文章の内容が分かるようになり、一気に得意科目にできたという経験をもとに、25年以上の指導において実際に受講生に好評だった「これなら古文が理解できる!」という学ぶ手順を具体的に紹介していきます。読んでいくだけで、文章の内容が分かるようになります。
はじめに
今回は『大鏡』「三船の才(ざえ)」(三舟の才)です。『大鏡』については別のページで詳しく説明していますので、そちらをご覧ください。
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「三船の才」(三舟の才)読解のコツ&現代語訳
古文を読解する5つのコツをお話しましょう。以下の順に確認していくと以前よりも飛躍的に古文が読めるようになるはずです。飛躍的に古文が読めるようになるはずです。
何度も本文を読んでみて(できれば声に出して)、自分なりに文章の内容を想像してみます。特に初めて読むときは、分からない言葉があっても意味調べなどせずに読みます。分からない言葉がある中でも文章の中に「誰がいるか」「どのようなことを言っているか」「どのような行動をしているか」を考えていきます。

本文にどのような人物が出てきているか、確認します。紙で文章を読むときは、鉛筆などで▢をつけるとよりよいでしょう。
簡単でもよいので、誰かに「こんなお話」だと説明できる状態にします。ここでは、合っているかどうかは関係ありません。今の段階で、こんな話じゃないかなと考えられることが大切なのです。考えられたら、実際にこの項目をみてください。自分との違いを確認してみましょう。
古文を読んでいると、どうしても自力では分からない所がでてきます。ちなみに、教科書などでは注釈がありますが、注釈があるところは注釈で理解して構いません。それ以外のところで、多くの人が詰まるところがありますが、丁寧に解説しているので見てみてください。

step4とstep5は並行して行います。きっと、随分と読めるようになっているはずです。
本文を読む
何度も本文を読んでみて、自分なりに文章の内容を想像してみましょう。特に初めて読むときは、分からない言葉があっても意味調べなどせずに読みます。分からない言葉がある中でも文章の中に「誰がいるか」、「どのようなことを言っているか」、「どのような行動をしているか」を考えていきます。


ひととせ、入道殿の大井河(おほゐがは)に逍遥(せうえう)せさせ給ひしに、作文(さくもん)の船・管弦の船・和歌の船と分かたせ給ひて、その道に堪(た)へたる人々を乗せさせ給ひしに、この大納言殿の参り給へるを、入道殿、「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき。」とのたまはすれば、「和歌の船に乗り侍らむ。」とのたまひて、詠み給へるぞかし。
小倉(をぐら)山嵐の風の寒ければもみぢの錦(にしき)着ぬ人ぞなき
申し受け給へるかひありてあそばしたりな。御(おほん)自らものたまふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さて、かばかりの詩を作りたらましかば、名の上がらむこともまさりなまし。口惜(くちを)しかりけるわざかな。さても、殿の『いづれにかと思ふ。』とのたまはせしになむ、我ながら心おごりせられし。」とのたまふなる。一事(ひとこと)のすぐるるだにあるに、かくいづれの道も抜け出で給ひけむは、いにしへも侍(はべ)らぬことなり。
登場人物の確認
・入道殿(藤原道長)
・この大納言(藤原公任)
藤原公任(きんとう)が、漢詩・音楽(管弦)・和歌のいずれにもすぐれていたという文化人としての卓越性が描かれた話です。中心人物は上記2名ですが、「それぞれの道にすぐれた人」というのも出てきますが、話の解釈上は特に大きく関わってきません。
お話を簡単に理解
・入道殿(藤原道長)が大井河(嵐山)で遊覧する
・その時、漢詩の船、音楽(管弦)の船、和歌の船と分けて、その道のすぐれた人を乗せる
・大納言(藤原公任)は和歌の船に乗る
・大納言はすぐれた和歌を詠む
・漢詩の船に乗って、これくらいの作品を作ったらもっと名声が上がったと悔しがる
・語り手の感想を述べる(大納言を称賛)
理解しにくい箇所の解説を見る
本文を読んで自分で内容を考えていったときに、おそらく以下の箇所が理解しにくいと感じたでしょう。その部分を詳しく説明します。解説を読んで、理解ができたら改めて本文を解釈してみてみてください。
- 【和歌】小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦着ぬ人ぞなき
- 申し受け給へるかひありてあそばしたりな
- かばかりの詩を作りたらましかば、名の上がらむこともまさりなまし
- 一事のすぐるるだにあるに
《①までの本文解釈と現代語訳》
今回の文章は、藤原道長と藤原公任の二人が中心です。下の簡単な家系図を見ると、二人は親戚関係にあることが分かりますね。父太政大臣頼忠は関白でしたが、政治の実権は兼家方に向かっていたので、公任は割と早く出世はしたものの、実権を握るほどには至りませんでした。この藤原公任ですが、すぐれた漢詩・漢文・和歌を集めた『和漢朗詠集』という歌集の編者であり、『拾遺和歌集』にも和歌が多数掲載されているなど、文化的な才能は非常に高かったことがわかっています。また、私たちがよく目にする百人一首の「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」の作者でもあります。「三船の才」は、そんな公任の文化的な才能の高さが垣間見える文章です。


まず、場面の整理をしておきます。藤原道長が京都の大井河(現在の嵐山)に遊びに行った時の話です。そこで「漢詩」「音楽(管弦)」「和歌」の3つの船を用意し、それぞれのスペシャリストを乗せます。ここで四条大納言(藤原公任)がやってくるのですが、彼はそのどれもが達人の域に達しているほどの人物です。道長は公任がどの船に乗るのか期待して見ています。そこで、公任は和歌の船を選択します。
それを理解した上で、①までの本文を解釈してみましょう。
ひととせ、入道殿の大井河に逍遥せさせ給ひしに、作文の船・管弦の船・和歌の船と分かたせ給ひて、その道に堪へたる人々を乗せさせ給ひしに、この大納言殿の参り給へるを、入道殿、「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき。」とのたまはすれば、「和歌の船に乗り侍らむ。」とのたまひて、詠み給へるぞかし。
(訳)はこちら(タップして表示)
ある年、入道殿(藤原道長)が大井河(嵐山)で遊覧なさった時に、漢詩の船・管弦(音楽)の船・和歌の船とお分けになって、それぞれの道に優れている人々をお乗せになったところ、この大納言殿(藤原公任)が参上なさったのを(ご覧になって)、入道殿は、「あの大納言は、どの船にお乗りになるだろうか。」と(人をやって)おっしゃると、(大納言殿は)「和歌の船に乗りましょう。」とおっしゃって、お詠みになったのですよ。
①【和歌】小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦着ぬ人ぞなき
小倉山や嵐山から吹きおろす山風が寒いので、(散りかかる)紅葉の錦の衣を着ない人は誰もいないことよ。

公任の和歌です。訳をするという点ではそれほど難しいことはありません。修辞技法などを気にせず、「風の」の「の」が主格を表す格助詞(〜が)、「寒ければ」の「ば」が順接仮定条件の接続助詞(〜ので)、「ぬ」が打消の助動詞「ず」の連体形(〜ない)くらいが分かっておけば、大まかな訳ができます。「小倉山から吹きおろす風が寒いので、紅葉の錦を着ない人はいない。」となります。
この和歌には、実は「掛詞」が用いられています。それは「嵐」です。「嵐」は「山から吹き下ろす強い風」のことを言います。この「嵐」に地名の「嵐山」(京都市右京区・西京区)を掛けているのです。
下の句の「もみぢの錦着ぬ人ぞなき」は「見立て」という用法を使っています。人々が本当に「紅葉の錦」を着ているわけではなく、「風で散って舞っている美しい紅葉が人々に降りかかるので、それをまるで華麗な錦の衣を人々がまとっているようだ」と言っているのです。つまり、「紅葉を錦の衣(美しい絹織物)に見立てる」表現になっているわけです。
また、この「見立て」から大きく2つのことが分かります。一つは、「もみぢ」が大井河(嵐山)周辺の風景の美しさを表していること、もう一つは「もみぢの錦着ぬ人ぞなき」から、「道長をはじめ、その周囲の人々も華やかな高貴な人々が集まっている」と道長や周りの人々を称賛する内容であることです。これを聞いた人々が気を悪くするはずがありませんね。
以上をまとめると、「小倉山や嵐山から吹きおろす山風が寒いので、(散りかかる)紅葉の錦の衣を着ない人は誰もいないことよ。」とこの和歌が解釈できることになります。この和歌は当然この場で称賛を受けることになります。
②申し受け給へるかひありてあそばしたりな
(訳)はこちら(タップで表示)
(ご自分から)お願い申し上げて(和歌の船に乗ることを)お引き受けになっただけの成果があって、(見事な和歌を)お詠みになったことだなあ。

公任が自らの意志で引き受けた和歌の船に乗って、期待通り見事な和歌を詠んだと評価する場面です。
「申し受け給へる」は少し訳しにくいです。「申し受く」は「言ひ受く」の謙譲語で「お願いして引き受ける」という意味になります。「(公任殿が道長殿に)自らお願いして(和歌の船に乗ることを)引き受けなさった」となります。「かひ」は漢字で「甲斐」です。「効果」「成果」という意味になります。
後半部の「あそばし」ですが、「あそばす」は「遊ぶ」の尊敬語です。
せっかくなので「遊ぶ」をここで覚えます。「遊ぶ」はもともと「好きなことをして心を慰める」という意味です。「好きなこと」がこの時代では、主に「音楽(管弦)」「詩歌(漢詩・和歌)」「狩り」「行楽」「遊園」などになるので、このようなことをすることが「遊ぶ」の意味になります。ただ、「遊ぶ」という単語としては、「詩歌・管弦などを楽しむ」という訳で覚えておくほうがよいでしょう。
「遊ぶ」(動・バ四)
1詩歌・管弦などを楽しむ
2好きなことをして心を慰める
「遊ばす」は上記の「詩歌・管弦などをたのしむ」の尊敬語である他に、広く「す」の尊敬語ともなります。現代語でも(あまり使われなくなりましたが)「お読みあそばす」などと使います。ここでは「和歌をお詠みになる」という意味で使われています。
「あそばしたりな」の「たり」は完了の助動詞「たり」の終止形、「な」は詠嘆を表す終助詞です。今でも使う「〜なあ」です。
以上をまとめると、「(ご自分から)お願い申し上げて(和歌の船に乗ることを)お引き受けになっただけの成果があって、(見事な和歌を)お詠みになったことだなあ。」となります。
③かばかりの詩を作りたらましかば、名の上がらむこともまさりなまし
(訳)はこちら(タップで表示)
もしもこれほどの(優れた出来映えの)漢詩を作ったとしたら、名声が上がるようなこともきっとまさっただろうに。

公任は和歌を褒め称えられて内心は喜んでいるはずですが、このようなことを言っています。ここは、当時の価値観が「優れた和歌を作ること」よりも「優れた漢詩を作ること」の方により高い評価が得られるということが読み取れます。
ここで重要なのは「反実仮想」です。「もし〜だったら⋯だろうに」という意味でしたね。「反実仮想」の構文については詳しく説明していますので、そちらをご覧ください。
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「かばかり」は「これだけ」「これほど」という意味です。「詩」と出てきたら、古文では「漢詩」だと理解しておきましょう。「名の上がらむ」とは「名声が高まる」という意味です。
文法の確認です。「作りたらましかば」の「たら」は完了の助動詞「たり」の未然形、「ましか」は反実仮想の助動詞「まし」の未然形です。「上がらむこと」の「む」は婉曲の助動詞「む」の連体形、「まさりなまし」の「な」は強意(完了)の助動詞「ぬ」の未然形(きっと〜)、「まし」は反実仮想の助動詞「まし」の終止形です。
以上をまとめると、「もしもこれほどの(優れた出来映えの)漢詩を作ったとしたら、名声が上がるようなこともきっとまさっただろうに。」となります。
《④までの本文解釈と現代語訳》
では、和歌の後の文から④までの文章を解釈してみましょう。
申し受け給へるかひありてあそばしたりな。御自らものたまふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さて、かばかりの詩を作りたらましかば、名の上がらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな。さても、殿の『いづれにかと思ふ。』とのたまはせしになむ、我ながら心おごりせられし。」とのたまふなる。
(訳)はこちら(タップで表示)
(ご自分から)お願い申し上げて(和歌の船に乗ることを)お引き受けになっただけの成果があって、(見事な和歌を)お詠みになったことだなあ。大納言殿ご自身もおっしゃったということには、「漢詩の(船)に乗るべきであったなあ。そうして、もしもこれほどの(優れた出来映えの)漢詩を作ったとしたら、名声が上がるようなこともきっとまさっただろうに。残念なことをしたものだ。それにしても、入道殿が『どの船に(お乗りになるだろう)かと思う。』とおっしゃったのには、我ながら得意にならずにはいられなかった。」と、おっしゃったそうだ。
④一事のすぐるるだにあるに
(訳)はこちら(タップで表示)
一つの事が優れることでさえめったにないのに

「漢詩」「音楽(管弦)」「和歌」の一つでもすぐれている人(才能がある人)は、めったにいないのに、公任はそのどれにも優れていると、語り手が公任を称賛する場面です。
「一事」とは「一つのこと」です。「だに」は「類推」を表す副助詞で「〜でさえ」と訳します。程度の低いもの(ここでは「一事」)を出して、程度の高いもの(ここでは、三つ「漢詩」「音楽」「和歌」)を想像させる助詞です。
「ある」はラ行変格活用動詞「あり」の連体形ですが、単純に「(そこに)ある」という意味ではなく、他の言葉の代用語的な用いられ方をして「〜である」という意味になります。ここでは「めったにないことである」という意味の代わりとして「ある」が使われています。
以上をまとめると、「一つの事が優れることでさえめったにないのに」と解釈できます。
《④以降の本文解釈と現代語訳》
最後に、④以降の文章を解釈してみましょう。
一事のすぐるるだにあるに、かくいづれの道も抜け出で給ひけむは、いにしへも侍らぬことなり。
(訳)はこちら(タップで表示)
一つの事が優れることでさえめったにないのに、このようにどの道にも抜きん出て優れていらっしゃったというようなことは、昔にもないことでございます。
おわりに
テスト対策へ
今回は、『大鏡』の「三船の才」についてお話しました。一通り学習を終えたら、今度はテスト対策編もご覧ください。

今回の文章は「大鏡」の中でも非常に有名な箇所で、「三船の才」はさまざまな能力を併せ持つ人の例えとしても使われます。筆者も高校教員をしていたとき、勉強も一番、運動能力もめちゃくちゃ高く、音楽も上手、人柄も良くて多くの生徒に慕われて生徒会長になる、そのような生徒を教えていたことがあります。まさに「三船(四船)の才」ですね。一方、公任は政治的な部分では最高の地位まで上り詰めることはできませんでした。文化的な才能は高くても、政治的な才能は道長に劣っていたのかもしれません。その他にも『大鏡』には魅力的な話が数多くあります。「ビギナーズ・クラシックス」などで、多くの文章に触れておきたいですね。また、今回の文章の続きの解説の希望があれば、後半部も公開します。以下からご連絡ください。
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